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  第二次虎門攻撃と威遠砲台
               
ア ヘ ン 戦 争Ⅲ
                               
  
中華人民共和国                       

  
                     〈虎門大橋とその真下に威遠砲台の砲座が並ぶ。 2010 12 31〉
                

 
             〈威遠砲台の砲座が並んでいる〉

 
      〈砲座の中に設置されている砲 2010 12 31)

 
         〈各砲座はこのように通路で繋がれている)

        
       〈威遠砲台からはこのような山道が続いている) 

  
              〈ここで戦死した関提督〉
         

 
 アヘン戦争の戦場は広い。南は今回訪問した広東省一帯から、舟山列島の定海・鎮海、上海から南京にかけての一帯、そして北は北京への入り口天津の塘沽要塞という広大な地域に展開している。今回私が訪問したのは、その一部緒戦部分の珠江デルタ地帯ということになる。

 威遠砲台と第二次虎門攻撃

18402月に入ると、エリオットは広東周辺に清の大軍が集結しつつあることに気付いた。そして、事実上埼善が失脚したことを知り、珠江河口に艦隊を進めた。エリオットは、打って出た。
226日、靖遠・鎮遠・威遠の砲台を砲撃し陥落させた。水師提督関天培は靖遠砲台で戦死した。戦いはまたしても中国側の一方的な敗戦で、捕虜だけで千人以上、戦死者は数千に達した。
 その「威遠砲台」は、先の「沙角砲台」から北へ10キロほどの所にある。正確には「威遠島」あるいはアヌイホイ島と呼ばれる島にあるが、珠江河口の狭まる地点に位置し、清にとっては「沙角砲台」よりも更に重要な位置を占める。
沙角砲台が珠江の第一関門であれば、この威遠砲台は第二関門と言える。

一帯は1835関天培により本格的な砲台となり、一大防御拠点という位置づけになる。1839年林則徐はここを視察し、英の進入を防ぐために100門から200門の砲を配置した。さらに海峡に繋がる小島に鎖を繋ぎ、侵入する英軍を遮断する方法を考えた。上下左右に、隙間のない厳密な火力交差網を構成した。アヘン戦争直前、これを知った英人が震え上がったという。琦善は結果的に外交では英側にこびる形になり、折角の防御網も分解し固い防御網を解くことになる。

イギリスは、清に条約の締結を迫っていた。その内容は①香港の割譲 ②賠償金600万元の支払い ③対等な外交 ④広州貿易の復活などであり、林則徐の後任琦善も内諾していた。しかも英側はすでに占領していた定海・鎮海要塞のある舟山列島と沙角要塞からの撤退を示していた。「もう一押し」と考えたイギリス側は、艦隊の準備ができ次第の攻撃を決意していたのである。

1841226日、英はエリオットが乗船した「ウェルズリー」を始めとする「ブレンハイム」「メンビル」「ネメシス」「アリゲーター」などの戦艦9隻そして輸送船団を引き連れて威遠砲台を攻めた。その時、駐屯軍への援助はなく、白兵戦の果て砲台は陥落した。これが第二次虎門攻撃である。

提督「関天培」は、靖遠砲台から各砲台を指揮していた。この砲台は1843年に再建され、1856(咸豊6年)年に再度英軍により破壊されている。
 威遠砲台は隣接する鎭遠砲台、靖遠砲台と連結されている。現在はまとめて「威遠島諸砲台」としてまとめられている。砲台は全長の360メートル高さ6メートル幅76メートル。下層部分は頑丈な花崗岩を使用し、石灰・砂・粘土を水でこねた建築材料で堅固に作られている。砲座は40個、要塞砲はそれぞれ高さ3メートル、幅4メートル、深さ7メートルの砲座の中に収められている。それらの砲穴は幅2メートルの露天トンネルによって連結されている。その露天トンネルにも、銃眼が設けられ、敵が上陸した場合にも対応できるようになっていた。

現在この砲台陣地の真上には、全長の17キロメートルの「虎門大橋」が架設され、その壮麗な景観に多くの中国人観光客をあつめていた。また隣接して「海戦博物館」という近代的な博物館が建てられ、わかりやすい展示が施されていた。

そして「虎門大橋」を望む山道が続いていた。山の斜面に作られた各砲台を巡る山道でもある。山道を上がると大橋が絶景である。同時に数㌔先に小島が二つ並んでいる。北側にあるのが北横当島、南側にあるのが南横当島である。

清側は北側の島に要塞を施していたが、南側の島からは兵力を引き上げていた。そこに目をつけた英軍がまず南島を占領したあと砲台を一晩で築き、翌日早速北島と対岸の主砲台に攻撃を始めている。

 200門の砲台も反撃したが、英陸戦隊が上陸してくる。清側は総崩れとなった。逃亡する兵が続出し、最後まで戦かって戦死したのは提督関天培ら20名に過ぎなかったとされている。金で雇われただけの軍隊の末路は、ここでも悲惨であった。


  
            〈虎門大橋の絶景。威遠砲台からの山道を登るとここに出る。右手に見える小島が北横当島              

   
           〈近代的な「海戦博物館」)
                    〈迫力ある展示 海戦博物館で)
 
    
      〈こんな砲弾では近代戦に太刀打ちできない)             〈威遠砲台から虎門大橋を見る)

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