HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 一木支隊の全滅Ⅱ アリゲータークリークの戦い ソロモン諸島 |
〈現在の飛行場。滑走路が「アリゲータークリーク」のそばまで伸びているのが分かる。 メルボルン在住 Peter Flahavin 氏より〉 |
〈2008 2 11に収録されたものは、NHK「兵士たちの戦争」 で放映された〉 〈現在のレッドビーチ。海岸の狭さに驚かされる) 〈死体で埋まるレッドビーチ すべてが一木支隊のもの〉 〈イル川を兵士と同じ方向に渡ってみる) 〈同じく一木支隊の遺体〉 〈あどけない顔が胸を討つ〉 〈旗手時代の斎藤さん〉 〈後出さん親子) |
第一 一木支隊の銃剣突撃が開始されたのは、8月21日の午前3時ころからとされている。イル川河口の通称「アリゲータークリーク」と呼ぶ沼と河口を、次々と日本兵が突撃した。 「電流鉄条網があるから、突撃は無理だと曹長から連絡が来たんだ。それで破壊筒というのを俺の分隊15人でもって、鉄条網に突撃したのさ。イル川を胸までつかって、渡ってな。事前に深さを測ったから、大丈夫さ。ワニよりな、サメの方が怖いんだ。 旭智輝は、生き残った部下2名と3人で後方に下がりはじめたが、すぐに夜が明けた。 「俺たちは、壊れて放置されていた米軍の車両の中に入って隠れて見ていたんだ。兵隊たちがな、アリみたいに戦車に踏みつぶされていくんだ。暗くなってから、3人でタイボ岬目指してビッコ引きながら向かったんだ。部下の旭川の菅原はな、尻の肉がなくなってるんだ。なかなか歩けないから殺してくれって言うんだけどな、棒でたたいてせっついて進んだんだ。だけどな、途中で体が冷たくなってきたんだ。仕方なく、自決用の手りゅう弾を渡して、川べりに残してきたんだよ」 こうして米軍の十字砲火を浴び、この日第一梯団911名のうち実に777名が戦死した。生き残っていた134名のうちの約30名は、上陸地点に残されていたものである。 一木隊長も、自決する。一木隊長の死については諸説があるが、単独で突撃した説が現在有力と考えられる。 この日斎藤清は、どうしていたのだろうか。 ボートを中川(イル川 アリゲータークリーク)に乗り入れようとすると、干潮にもぶつかりなかなかうまくいかない。(状況を考えると、イル川手前のテナル川の可能性が高い) 斎藤清たち10名は、再び海に戻りボートを漕ぎ始めた。夜が明けると、当然のように米軍機に襲われた。 こうして第一梯団は、ほぼ壊滅した。約60名の斎藤清の小隊は、彼以外誰ひとりとして戻らなかった。旭智輝もたどり着いた。 「タイボ岬にたどり着いたらな、30名くらいの兵隊しか集まらなかった。五・六日たったら、死んだと思った菅原が這うようにして戻ってきたんだ。俺も傷がひどくて、歩けなくなっていたな」。 一木支隊の全滅は、太平洋戦争を象徴する戦いである。「無謀な作戦計画の日本」対「物量と計算のアメリカ」の図式が見てとれる。この図式は終戦まで変る事なく、日本軍は自ら破滅していくのである。 2003年8月12日、現地ガイドフランシスさんの運転する四輪駆動車は、ムンムンする雨上がりの道を進んだ。 一木支隊が次々と上陸した「タイボ岬」を訪問したかったが、50キロの悪路とオーストラリア軍がキャンプを張って立ち入りを制限しているという事で、私たちは第一梯団が壊滅した「イル川河口・アリゲータークリーク」に向かう事になった。 右手に川が、海に流れ込んでいる。 とにかく、草が生い茂っている。 私は、供物として「池田ワイン」を持参していた。これは、北海道池田町の遺族後出やす子さんに託されたものである。 昭和17年、北海道池田町の生家に最後のハガキが届いた。内容は、 後出喜代治は、この第一梯団に属していた。 再び、私達は中川を渡渉する。前方の海に視線を向けるとオーストラリア軍のフリゲード艦が見え、そのバックには日米が海戦を重ねたサボ島が見える。 |
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