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                  陸の玉砕 拉孟            
                                  らもう
                                             
                                                 2010 5 十勝毎日新聞にて連載
  中華人民共和国雲南省                                           2009 12 30
         
      
               〈怒江が見えてきた。標高2500bあたりをタクシーは走る 2009 12 30
  
 
     <必死に運転する張さん 恵通橋の直前で>
  
  
 
    


   
    
 (恵通橋の前で。午前10時だが陽が届かない)   

    

         〈攻撃を受ける当時の恵通橋〉

 
          〈有明池と爆撃跡〉
   

  
       〈松山陣地に向かって山道を登る〉


  
          〈右端が朴永心さん〉

これまで、多くの戦地を訪問してきた。太平洋に浮かぶ「玉砕の島」や、旧満州の場合が多かった。昨年「インパール作戦」で名高いミャンマーを訪問した際に、「陸の玉砕」の存在を知った。それは「拉らもう 騰越とうえつ」という、耳にしたことのない地名であった。

ちょうど一年前滞在した北ビルマの激戦地「ミートキーナ」から、中国国境線にそびえる「雲南」の山々を目にした。「あの山の向こうに、その陸の玉砕がある。いったい何のために、兵士はそんなところに送られ死ななければならなかったのか」。

そんな思いが、再び私を駆り立てた。悪名高い「黄金の三角地帯」を控えているため、ミャンマー側から中国側への入国は認められていない。今回、中国側の雲南省昆明から今回の旅は始まった。  

T 拉孟守備隊の玉砕

中国雲南省西端の中心都市「保山」から、チャーターしたタクシーで山道を約2時間。覗き込むような大峡谷の下に、ようやく目的の河が見えてきた。国境を越えたミャンマーではサルウイン川と名を変える全長3950`の大河「怒江(どこう)」である。標高3000b近い曲がりくねった山道は、ハンドル操作を誤ると、無論谷底に転落する以外にない。  

ようやく標高800bほどの谷底にたどり着くと橋(紅旗橋1974年完成)があり、機関銃を携えた人民解放軍の兵士が行く手を阻み、身分証明書の提示を求めてきた。運転手の張さん(36歳)も初めて訪問したらしく、どぎまぎしている。私と今回同行した立命館大学2年の古田弘之君も「あの機関銃、本物ですか?」と、心配顔である。

椅子に踏ん反り返って座っている責任者らしい将校が、執拗に私たちのパスポートを調べている。このシーンを何とかカメラに収めようと考えたが、兵士の数が多く隙がない。
 
2004年近くに高速道路が完成したため忘れ去られたこの橋は、現在もなお戦略上の拠点である。

 第二次大戦中連合国側は蒋介石の中国国民党政府に莫大な援助物資を、ビルマラングーンから雲南経由の陸路で送り込んだ。その陸路こそ、「ビルマルート(援蒋ルート)」である。蒋介石の生命線となったこのルートを切断するために日本軍は躍起となり、北ビルマからこのルート沿いに国境を越えて雲南の地になだれ込んだ。
 
そして、この大河「怒江」にたどり着いた。川には橋が一本だけ架かっていた。それが、「恵通橋(1935年完成)」である。
 
その橋は、私たちの立つ「紅旗橋」から僅か上流300bに残されていた。橋の骨組みだけが残され現在は使用されていないが、大戦中日本軍の空爆に耐え、そして1942800両のトラックで慌てふためき撤退する国民党軍によって自ら破壊された歴史を持つ。橋は深い谷底にあり、太陽の光も届かない。

ここで足止めを食った日本軍は、対岸の山の上に占領していた2年の年月をかけ要塞陣地を作り上げた。その陣地は、地名をとり「拉孟 らもう」と名付けられた。ここが「陸の玉砕」の地である。

「ここから山道を駆け上がれば、直ぐに着くだろう」という甘い考えは、たちまち打ち砕かれた。「松山抗戦遺址35キロ」という道路標識を、目にしたからである。これまで目にしていた地図の縮尺には、大きな誤りがあることに気がついた。
 
再び長い山道を、タクシーは登り始めた。張さんが何度も車を止め住民に道を聞いているが、とにかく登るしかない。実に1時間後、ようやく中国側の記念碑のある「横股陣地」跡に登りついた。そこから3`先には、記念碑が残る大きな集落がある。
 
とにかく予想を超えた、広大な面積と高度差である。最高高度が2700m河岸の標高が800b程度であること分かり、実に高度差だけで1900bということになる。大雪山黒岳の山頂から層雲峡を覗き込んだ高度差が、1400bであることと比較していただきたい。
 
この広大な陣地に送られた兵士は、僅か1300名(福岡佐賀で編成された第56師団歩兵第113連隊)に過ぎない。砲の数も22である。
 
兵たちはドラム欄に土を詰め、スコップを手にして手作りの堅固な陣地を計10あまり築いた。水の確保も重大である。貯水池をつくり、食糧も蓄えた。

 1944年5月、連合軍の反撃が始まった。米軍式の近代装備に鞍替えした国民党の雲南遠征軍20万が怒江を渡り、そのうち48千が火炎放射器などの圧倒的な兵力を整え「拉孟 らもう」に殺到した。 
 
6月末には瞬く間に「恵通橋」を再建し、同時に連日8千発もの砲弾を打ち込んだ。

私たちの車はターヤーコウの集落から、車で行けるところまで行こうと未舗装の山道に入った。
 
標高2500bほどのところに「有島池」と名付けられた池があり、日本軍の集会が開かれた広場や砲撃の窪地などが残っている。
 
ここから先は、私は古田君と徒歩で山中に入る。日本軍の三ヶ月にわたる篭城に手を焼いた国民党軍は、820日主力の「関山陣地」の真下に坑道を掘り進め、TNT火薬を爆破させて一機に局面を打開した。
 
2`ほど先のその現場まで辿り着こうとしたが、ガイドなしでは山道に迷うばかりで途中で私たちは諦めた。「松山陣地」周辺はなるほど、現在は美しい松林に覆われている。
 1300名の兵士たちの99パーセントが、この森の下に眠っている。戦況報告のために脱出を命じられた木下昌巳中尉を始め、負傷した後捕虜となり生還した兵は、合計僅か20名程度と言われている。

 ここに一枚の写真がある。大きなお腹を抱えた姿が哀れである。朝鮮人の従軍慰安婦朴永心さんである。
 
20名の従軍慰安婦がここに送られ、そのうち15名の日本人慰安婦は自決または戦死したが、5名の朝鮮人慰安婦が投降し保護された。運命に翻弄された彼女は当時23歳、200685歳で故郷の北朝鮮にて逝去している。
 194497日、拉孟の戦いは「玉砕」の末終了した。国民党軍も、実に6763名の将兵を失ったと記録している。何のための戦いだったのであろうか。私たちは、山を下り始めた。標高2500b前後の日本軍の陣地跡にも集落が続き、現在を生きる人々の生活が見える。私たちは、次の激戦地「龍陵」に向かった。
  

   
孟への行きかた
 
 
昆明から保山まで高速豪華バスで、6時間半〈3015円〉。空路もある。 保山にはホテルはある。2400円で宿泊した。
 そこからは路線バスがなく、タクシーを町で拾った。今回のチャーター代     9000円〈600元〉であった。相場はもう少し安いはずである。


      
       
                        <恵通橋から紅旗橋を眺める。峡谷の深さが強烈だ>
                                                   
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