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   原爆の島テニアン島Ⅱ
 
                            
  
  
北マリアナ諸島                       
   
 
                                     
 
 
     〈飛行場「ノースフィールド」のA滑走路〉

  
            〈飛行場「ノースフィールド」〉

  
            〈エノラゲイとリトルボーイ〉

 
      〈このピットに「リトルボーイ」が入れられていた〉

     
         〈このピットの中の「リトルボーイ〉

 
  ハゴイ地区

島の中央部から北端にかけては広大なサトウキビ畑であったが、アメリカ軍に焼き払われてしまった。アメリカは、後のベトナムなどで大量に使用した新兵器の「ナパーム弾」を初めてここで使用し、兵隊ごと焼き尽くしてした。

テニアン島では、3500名の日本の民間人が犠牲になっている。現在の島民の人口は、僅か2500人という。
 私の車は北に進む。あたりは、現在も尚アメリカ軍の管理地になっていて人家は全く見当たらない。更に進むと、飛行場の跡地に行き当たる。

アメリカが上陸する前は、日本軍の「第2飛行場」であった。アメリカは、占領後島の北端と中央部に広大な飛行場を建設した。
 北端のものが「ノースフィールド基地」で、南側が「ウェストフィールド基地」である。ここは、ノースフィールド基地の跡地に当たる。

 ウェストフィールド基地にはB
29の二本の滑走路の他に小型機用に3本目が建設され、この滑走路を現在テニアン空港として使用している。

1945310日、334機の29が東京上空に侵入し、2時間半にわたりジュウタン爆撃を行なった。この一晩だけで、10万人以上が死亡した。

この「東京大空襲」も、ノースフィールド飛行場からのB29である。東京まで2250キロを往復13時間かけての、爆撃作戦である。
 この頃テニアンにはさらにB29が増強され、ノースフィールドに165機、ウェストフィールドに126機、計291機が配備された。グアム186機、サイパン187機、合計662機である。終戦時には、計986機と言われている。全く、けた違いの数であった。

ノースフィールドには4本の滑走路があったが、そのうち2本は現在密林の中に埋まっている。しかし北端のA滑走路は、現在も尚完全な形で残っていた。

この滑走路こそ、ヒロシマ・ナガサキに飛び立った「エノラゲイ」と「ボックスカー」の使用したものである。

1939年から日本は、12000の囚人を使って飛行場建設にあたった。当時は1500メートルの滑走路を持ち、海軍航空隊司令部の下におかれていた。

その海軍の「航空隊司令部」の建物が、激しい攻撃の果てにも残っている。よほど頑丈に作られたと見えるが、中に入って印象深いのは当時のトイレがそのまま残っていた。

アメリカは上陸後二日間でこの滑走路の再利用を可能にし、更に4本の2600メートル滑走路を持つ世界最大の飛行場に作り変えてしまった。

私はレンタカーで、実際にA滑走路を走ってみた。人気のない周りの密林は不気味だが、路面はしっかりしており現在も使用できそうなほどである。

北側のエプロンに入ると、原子爆弾搭載ピットが2箇所並んでいる。幅4メートル長さ6メートルほどの穴が掘られており、現在はその上にカバーがかけられている。

なるほど、原爆はあまりに重過ぎて、搭載するためにはいったんこの穴の中に入れられた。近くの建屋で組み立てられた原爆は、このピット内に降ろされ、搭載するにはこの上にB29がまたがり、弾倉を開いて原爆を吊り上げ収納したわけだ。

「エーノラゲイ」は4585日午後ここで原爆を搭載し、翌朝245分に離陸した。行き先は広島であった。そしてその3日後「ボックスカー」が、長崎へ向かった。

テニアン日本人学校

 アメリカ軍に投降保護された日本の民間人は、カーヒー地区に建設されたキャンプに収容された。

「掘っ立て小屋のような所に、むしろを敷いただけのものでした。仕事に行けば、チョコレートやガムももらいましたよ。学校があったんです。このビデオを見てください」

井上茂さんは、私にあるビデオを見せてくれた。アメリカ軍は、戦時中にもかかわらず昭和19年、テニアン島に日本人の子供たちのために学校を作った。生徒数は、実に2074名である。

「私も、学校で英語を習ったんですよ。そしてここで星恵美子さんとも、一緒になったんですよ。戦後日本に戻った後も、ここで覚えた英語が役に立って、山形の米軍図書館で働いたんです」

 この学校の創設に尽力したのは、当時わずか26歳のムック海軍中尉である。敵国の為に、周囲の反対を押し切って学校を作るアメリカ人。私はたびたび、この国の人々の懐の大きさに驚かされる。


   
      〈こちらはファットマンが保管されていたピット〉

                    
                     〈晩年のムック中尉と彼の作った日本人小学校〉
 
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