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   原爆の島テニアン島Ⅰ
                               

  
北マリアナ諸島                       
   
  
                                     
 
   〈米軍が作った世界一の飛行場「ノースフィールド」〉

  
           〈お世話になったセスナ機〉

  
     〈現在のウエストフィールドは使用されている〉

   
              〈井上茂さん〉

  
         〈マルボ小学校の児童 昭和14年〉

   
             


 
アメリカ軍がテニアン島を手にしたい理由は、サイパン島同様B29の発進基地としてであった。特にテニアン島は平坦で、飛行場建設としては最適であった。

私がこのテニアン島を訪問したのは、2005年1月である。当初サイパン島からは、船の便を予定していたが、桟橋に行くと当てにしていた便が欠航となり、急遽飛行機で渡ることになった。

サイパンとテニアンとは、僅か5キロしか離れていない。アメリカ軍がサイパン島に上陸してきた時にはテニアン島の日本軍が砲撃を浴びせ、アメリカはサイパン島占領後に、サイパンからテニアンの日本軍守備隊に3万発の砲撃を浴びせている。

搭乗した飛行機は、小さなセスナ機であった。客がきて用意が出来れば、直ちに離陸するわけでまるでタクシーである。

僅か10分ほどのフライトであるが、空からはテニアン島の平坦な地形と、アメリカ軍が建設した巨大な飛行場の跡地を見ることができた。

この滑走路から夥しい数のB29が飛び立ち、日本本土に空襲を繰り返した。最後の結幕は、ヒロシマ・ナガサキである。
 私はどうしても原爆「リトルボーイ」と「ファットマン」の搭載地点にも、行ってみたかった。小さなテニアン空港でレンタカーを借りホテルを決めたあと早速、その現場に向かった。

   井上家の場合

 島を南北に突き抜ける真っ直ぐの道を、北上する。この道は、「ブロードウエイ」と名づけられている。この島の形がマンハッタンに似ている事から、アメリカが名づけている。  

片側2車線が1車線にかわると、日本軍の通信所だった建物が現れる。近年まで家畜肉の処理場として使用されていただけあって、頑丈なつくりである。

そこから更に北上してすぐに、左手に小高い丘が見える。標高165メートルの、ラッソー山である。ここは見晴らしがよく、また山裾の洞窟には多くの日本人が潜んだ場所である。このあたりに来ると、車や人の気配がなくなりあたりはうっそうとした密林である。

「私の家は、日本軍の通信所の裏手にあったのです。アメリカ軍が上陸してきた時は、このラソー山の洞窟に避難したんですよ」
 そう話すのは、井上茂さんである。彼は、現在北海道旭川市にお住まいであるが、当時は山形県上ノ山市から昭和5年にテニアン島に移住したサトウキビ農家であった。

「私は、生まれて半年でテニアンに渡ったんですよ」テニアンには昭和19年までに1130軒の開拓農家が渡り、1軒につき7ヘクタールのサトウキビ畑が均等に割り当てられていた。昭和12年には、マルポ小学校に入学した。

「1学年40人くらいだと思います。海に遊びに行きました。サザエ・シャコ貝などを捕りましたね。 靴も履かずに、裸足でくらしていましたよ。ネズミが多くて、ネズミ駆除が奨励されていていました。ネズミのしっぽを役所に持って行くと、お金をもらえたんですよ」

昭和19223日に、初めて米軍機の空襲を受けた。
「はじめは日本機だと思っていたんですが、日本機特有の翼に丸みがなかったんです。3機編隊で、機銃掃射してきました。銃弾も5発おきにえい光弾になって光っていました」

その後井上家には、日本軍の兵隊たちが駐屯する。611日からの空襲では、真っ先に近くのこの通信所がねらわれた。
「海岸に、洞窟を求めて逃げましたよ。16日からの艦砲射撃も凄かったですよ。艦砲射撃は、6発まとめてくるんです。

その後はラッソー山の、洞窟に逃げ込み自宅と行ったりきたりしていました」
 ラッソー山の山裾の洞窟には、井上家の4人家族だけが逃げ込んでいた。
「そのうち、重傷を負った前田兵曹と鈴木一等水兵が、私たちの洞窟にやってきました。727日の夜、上陸した米軍戦車の音が聞こえてきました。 鈴木一等兵曹が一緒に連れて行ってくれと言うので、照明弾の中を一晩かけて海岸に洞窟を求めて移動しました」

 井上家は、14歳の茂、父・兄・姉の4人であった。兄は自決用の手榴弾
を兵隊たちから、もらい受けていた。

「朝5時ころには、アシーガの海岸にたどり着きました。なかなか洞窟が見つかりません。岩と岩の裂け目(クレパス)に、住民が避難していました。そのうち、ある人に洞窟に案内してもらったのです 入り口は小さくても、中はとても広い洞窟で100名ほどの人々が入っていました」

洞窟は、海にも通じ避難所としては最適なものであった。
「食べるものは、乾燥イモと落花生だけでした」水くみのために洞窟を出たある島民が、米兵に捕らえられた。

「その人が、洞窟に戻ってきて言ったのです。アメリカ兵が言っている、出てこなければ爆弾で洞窟をつぶすと。それで家族ごとに相談が始まりました。自決するか、投降するかです。
 私たちには、兄が持っている一発の手榴弾しかありませんでしたから、兄は、死ぬのは一発では無理だと言いました。 
 どうせ殺されるのなら、家族一緒がいい。洞窟を出ようと言うことになったのです」こうして、井上家の4人は他の民間人とともに投降した。

730日の午後1時頃でしょう。トラックに乗せられて、ハゴイのキャンプに連れて行かれました。途中ふくれた日本兵の死体をたくさん見ましたよ」。  


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