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        沖縄戦の縮図「伊江島」                                
                                                                    
  
沖縄県伊江島
 
                 
        

 
               〈ちゅらうみ水族館から見ることができる、印象的な伊江島の全景

       
 
           島の中心部〉
  
 
         〈城山はこの島のシンボルだ〉

  
         
 〈現在も残る「公益質屋」の建物

  
           〈民家を焼き払う米軍
  
 
        〈アハシャガマを覗き込む〉

 
 

沖縄を代表する観光地「美ら海水族館」を訪れた観光客が水族館の入り口で真っ先に目を奪われるのは、美しい海の向こう見える大きな島影である。これが「伊江島」である。平らな島の中央に鋭い岩山が見える。これが激戦地「城山」である。

この伊江島は、「沖縄戦の縮図」と呼ばれている。凄惨な「沖縄戦」のすべてが、ここに凝縮されているからである。
 この島は本部半島の北西9kmに浮かび、北東には伊是名島と伊平屋島が、南西には遠く慶良間列島を望むことが出来る。島は楕円形で東西8.4km、南北3km、面積は22.73k㎡、現在の人口は約5600人である。 

私が訪問した2007年1月7日は、北日本を台風並みの大型低気圧が通過し、沖縄近海も冷たい強風が吹きつけ、本部港からのフェリー「いえしま」も大きく揺れた。                       島の北海岸は約60mの断崖絶壁が続き、中央には先の標高172mの岩山「城山ぐすくやま」がそびえている。その山麓から北の海岸にかけては1,250haの平地が続いている。

この平地に軍部は目をつけた。飛行場建設に最適な地形だったからである。1942年8月、日本軍はこの島に全長2000mの滑走路2本の飛行場の建設を始めた。工兵隊はもとより働けるすべての島民と朝鮮人労働者を加え、一日2500人の労働力を動員した。

1944年戦況が悪化すると軍は、島民の沖縄式墓地を押収し、そこを陣地としてしまった。そして足手まといになる老人・子供を強制的に疎開させていく。対岸の沖縄本島の今帰仁なきじんに、村をあげて半ば強制的に疎開が進められた。

残った島民も軍事訓練を受け、正規の軍人を含め5千人ほどの総兵力とされていった。そして2本目の滑走路もほぼ完成する。
 
 10月10日に大規模な爆撃を受けた後、1945年1月22日の二度目の爆撃では、主要な建物のほとんどが破壊されてしまった。そして日本軍は、米軍による占領に備えて完成したばかりの滑走路を自らの手で破壊してしまった。


 そして3月23日から始まった空爆と艦砲射撃は、約3週間続けられた。ナパーム弾やロケツト弾までも使用した猛烈なものである。城山(タッチュー)の地肌がすべてむき出しになるほどの砲撃を受け、1000軒のすべての民家は焼け、残ったのは「公益質屋」のみであった。

この建物は、現在も村の公民館に隣接して保存されていた。貧しい当時の島民の金融援助対策の一環として、昭和15年に建てられたものである。大切な質入れの品々を保管するために、コンクリートでより頑丈に作られたのであろうか。

やがて島の周囲の海は米軍艦艇に覆い尽くされ、米軍の上陸作戦は4月16日から始まった。バックナー中将第10軍の第77歩兵師団(ブルース少将)第305連隊と第306連隊である。まずは80台の戦車と1000名の兵士が動員され、翌日にはさらに6000名が上陸した。

日本軍守備隊の隊長井川正少佐(第2歩兵第1大隊)は多くの地雷原を作り、米軍の進撃を一時的にはくい止めた。現在の伊江島中学校の周囲には「学校陣地」が作られ、死闘の現場となって「血塗られた丘」と呼ばれている。   

住民の多くは、洞窟(ガマ)に避難した。その代表的なものが、島の南部海岸にある「ニャーティアガマ」である。古くからこの大洞窟は、霊場(御嶽うたき)としての性格を持つ神事の場所であったが、千名もの島民を収容したこともある。しかしその一方で、その一方で戦う術を持たない島民が集団自決に走ったガマもある。

 その代表が、島東部にある「アハシャガマ」である。アハシャガマでは20世帯以上の約150人が避難していたところへ、米軍に追われた日本軍が合流し、軍が持参した急造爆雷で自爆し100人以上の命が失われたという。

このガマは現在、ゴルフ場に隣接した車道の脇にひっそりと残っていた。レンタカーを運転しながら、洞窟の中をそのままかいま見る事が出来る。私の目に飛び込んできたのは、水瓶である。62年前の惨劇の時に島民が持参していたものに違いない。そばに近づくと水瓶だけではなく、食器や茶碗などもある。私はものすごい臨場感に、圧倒されてしまった。1971年12月に、ここから百数十体の遺骨が発掘されている。

この島の特徴は、多くの島民が軍と戦闘をともにし、「人間爆弾」「自爆攻撃」を繰り返したことである。年齢男女を問わず島民を動員した竹槍・爆弾を抱えた特攻攻撃が行われ、日本軍による強制自決も発生している。
 島の北海岸には約60mの断崖絶壁が続いているが、そこから身を投げた島民も数多い。湧出(わじー)と呼ばれる天然水が海中から湧き出る地点がある。ここは命の水を求めて多くの島民が断崖を下ったと同時に、人が身を投げた場所でもある。訪問した1月7日は4メートルの高波が荒れ狂い、私の心を益々暗いものにした。

日米両軍による虐殺・その他の残虐行為も数知れず、4月22日に戦闘が終結するまでに、民間人を含む4076人が戦死している。島の人口6600人(うち三千名は疎開中)のうち1500人、日本軍は2500名のうち2000名、その他の戦死者は徴用労働者という夥しい犠牲者を数えている。米軍の死者は、239名であった。そして米軍に収容された住民は全員慶良間島に移された。島民2100名のうち渡嘉敷島へ1700名、座間味島へ400名と言われている。

                     
    
  
                〈「アハシャガマの内部。中には当時の甕や食器がそのまま残り、人々の胸を打つ〉

    
      
      
                     〈貯水池の横を進む米軍。 城山の山頂からは多くの貯水池を見ることができる〉

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