HOME〉Manchuriar                                              Manchuria >2002-2005


            
  428人の集団自決 麻山事件Ⅰ
                                        まさん
 

  中華人民共和国黒龍江省
                                                                                 
      
    
                                 
 
 
     〈満州に渡るときの高橋家。中央に幸子さん〉   

  
         
 〈現在の東海駅 2005 10 23〉

   
        
 〈母に抱かれる幸子。左側は2人の兄〉

 

  
現在のハタホ開拓団の跡地  黒竜江省鶏西市から      
    東に約30キロの地点  現在も哈達河の地名が残っ   
    ていた。 広々とした風景は現在も変わらない〉 

     

 
      〈ハタホ開拓団配置図 岩崎スミさんより〉

 

 

 
         〈事件現場の幸子さん〉  


 鈴木幸子さん(旧姓高橋幸子)が、満州に渡ったのは昭和16年(1941年)のことである。幸子さんは19361027日生まれ、当時満5才であった。幸子さん自身家族とともに小樽港から乗船し、船酔いの果てに大陸にたどりついたことを記憶している。
 
 父高橋秀雄氏は前年、北海道広尾郡の広尾産業組合常務理事から満州拓殖公社の農業指導者として満州に渡り、東安省の農産物交易所長及び鶏寧、林口、勃利の3出張所の所長を兼ねていた。

 
 高橋家は、このような形で「哈達河(ハタホ)」開拓団に参加していたわけである。 翌年、妻と
4人の子供を呼び寄せ、その後もう1人お子さんが誕生している。東海駅近くの地方事務所では、哈達河開拓団の貝沼団長と隣家の関係であった。

 哈達河(ハタホ)開拓団は、第4次の開拓団政策として誕生した。農地の多くは現地の中国人から強制的に取り上げたものであったが、未開の土地を開拓した部分もあったらしい。

 この「哈達河(ハタホ)」開拓団もまた、ソ連参戦に伴う逃避行の果てに、ソ連軍戦車部隊と蜂起した中国人によって前後をはさまれて身動きがとれなくなり、ついに集団自決の道を辿る事になる。

 事件の経過については、中村雪子著の「麻山事件」や合田一道氏の多くの著書・鈴木幸子さんの証言などを元にして、整理してみたいと思う。  ・・敬称略・・
 
 1945
年8月9日午前零時、ソ連国境間近のソ連軍の対日参戦が開始された。
 関東軍は、45年6月にいわゆる成年男子の「根こそぎ動員」を実施している。満州国にいる35万人の成人のうち、実に25万人を兵士として電話1本で召集したのである。 
 兵力は78万になったが、装備は貧弱で火砲は以前の三分の一程度にまで落ち込み、小銃さえ兵士に満足には行き渡らなかった。
 航空機に関しては、僅か230機であった。
                            
 米ソは当時自動小銃の時代にはいり、攻撃力は比較にならなかった。ソ連軍兵士には、「マンドリン」と呼ぶ機関銃が装備されていた。

 満州になだれ込んだソ連軍兵力は計174万、戦車5200両、航空機5000の大軍である。三方面に分かれていたが、哈達河(ハタホ)開拓団を襲った第一極東方面軍は、兵力約50万・戦車1974両であった。まったく、けた違いの兵力である。

89日夜が明けた。哈達河(ハタホ)開拓団の上空にソ連機が一機飛来し、関東軍が駐屯しているあたりを攻撃した。当初これを発見した人々は、数ヶ月ぶりに目にする日本軍機と思ったらしい。

 攻撃を加えられた時も、これを米軍機と考えソ連軍機とは思いもつかなかったようだ。現地には、全く正しい情報は入っていなかったわけである。
 

 ソ連軍は、午前0時を境に国境を突破し、満州国内になだれ込んでいた。哈達河(ハタホ)の人々は、誰一人としてその真相を知るものが居なかった。

 夜8時、開拓団本部に「鶏寧に集結せよ」という指令が入った。貝沼洋二団長は集落長を集めて、今夜中にも出発することを決定した。
 

 当時、満
8歳の高橋幸子は、
「ちょうど十勝平野からみわたす日高の山々のように見えるのが、ソ連との国境の山だったんです。夜、あちこちで花火が光るような光が見えたのです。手りゅう弾の光のようでした」

 開拓団が避難を開始したのは、8月10日の朝早くである。開拓団員1300名馬車180台、先頭から最後尾まで延々と続く長い行列である。
「しばらくは帰ってこれないので、家畜にありったけのえさを与えていました」 幸子。
 出発してまもなくすると、ソ連軍機が猛然と避難の列に攻撃を仕掛けてきた。人々は、あわてて木陰や道路わきに避難する。昼間の行動は危険なので、夕刻目的地の「鶏寧(現在の鶏西)」に到着することになり、それまで近くの原野にもぐりこんだ。

 夕刻鶏寧の街にはいったが、空襲と避難民がつけた火によって火の海であった。この町の県公署に出向いても誰もいない。貝沼団長は、直ぐに70キロ西の町林口への出発を決断した。
燃え盛る鶏寧の街を、避難民の列はぬける。

 雨が、降り出していた。

 この日から、満州全体が雨に見舞われた。この土地特有の粘土状の道路はたちまち泥濘になり、馬車はのめりこみ人々は泥まみれになりながら馬車を引き上げた。人々は、布団や毛布をかぶった。
「事件の日まで、二晩夜を越しました。鶏寧の町の中で、日本人の避難したばかりの家をお借りするような感じでご飯を炊いたり一晩の宿を借りたりしした。 馬車の上では布団を被っていましたが、雨でとても重くなったのを覚えています」

 雨は、冷たかった。誰もが、寒さで震えていた。真っ先に乳のみ児が、母親の背中で死んだ。死んだ子は、道端におかれ草が掛けられた。
「一歳にも満たない末の妹は、自決の時に亡くなったとばかり思っていましたが、 今良く考えてみると、自決以前にすでに亡くなっていたのかもしれません。 事件当日は一度も泣き声を聞きませんでしたから」 03330日 幸子・・

「時々は、ごはんを炊いて砂糖をつけて食べました」
 その頃から集団から落伍した開拓民は、地元民に襲撃され始めていた。高橋秀雄は、襲撃され負傷した人々を救助し数少ないトラックに乗せて移動している。
 
 運命の812日は、朝から快晴であった。団員の足取りは軽くなるはずであったが、疲労はかさなり行列は分裂してきた。いつしか先頭グループが約300名・中央グループが約500名・後方集団が約400名の、三つの大きなグループに分かれた。

 先頭と後方とでは、78㎞も離れていた。国境地帯から撤退する関東軍の将兵たちが、開拓民をどんどん追い越していく。
 午後、貝沼団長らのいた中央集団は、関東軍約460名に遭遇した。開拓民は心強く感じるが、逆に戦闘に巻き込まれる結果を招くことになる。
 このころ後方からはソ連軍がせまり、前方では中国人部隊と交戦中という情報が入る。先頭グループは既に、中国軍とソ連軍に攻撃を受けていた。
 死傷者が続出し、集団自決に走っていた。自分の妻子を射殺した男性も、続出した。
  
彼等の多くは家族を射殺したのち、ソ連軍への「斬り込み攻撃」を決意し、中央集団にもどり貝沼団長に事態を報告した。
その事実の報告を聞いた貝沼団長らは、愕然とした。
 

 関東軍の兵隊たちが行過ぎた。
貝沼団長は彼等に保護を求めるが、
「軍の命令で牡丹江に移動している。開拓団を保護する余力などない」と、そのまま去っていった。ここでも、彼等は「棄民」とされたのである。

 貝沼団長らは、思案した。
男性だけが生き残って斬り込み隊を組織し、自決の後に敵に突撃することが決まった。
 夕暮れが、せまっていた。一行は谷間を自殺の場所と決め、移動した。日本のある東方を望み、万歳を三唱して祖国とそして家族とに別れを告げた。 


 ■現地ではこの事件現場を「西大坂スーターパンの日本人墓}と呼んでいる。 慰霊行為はご法度であるので、速やかに行動し、地元の人々の密告通報を事前に避けることが望ましい。 中心都市鶏西まではハルピンから高速バスが頻繁に出ている。そこからタクシーをチャーターすると、簡単にいくことができる。

   
                              
                                        〈前年の2004年10月に撮影した現場〉

                              〉〉NEXT
       
                     
inserted by FC2 system