〈事件現場。幸子さんが水を飲んだ小川が流れている〉
〈養父張学政と幸子さん TBSの番組より〉
〈岩崎スミさんが建てた碑がある〉 |
まず団長が、割腹自決をした。手島光男談 貝沼団長の自決については、ピストルで自分の頭を撃ったという説が有力である。
続いて、銃声が鳴り響いた。銃を手にした男たちが、家族・近所の人々を撃ち殺し始めた。 「どこからともなく、切り裂かれたような白い布がまわってきて、私達は目隠しをしました」幸子。
「おとうさん、撃たないで。生きたいよ。という子供の声が聞こえました。 死にきれず、苦しんでいる人は居ませんか。という声もです」
死に切れなかった人々は、とどめを刺して貰ったようだ。幸子の 母貞子(38歳)、一歳の久子、五歳の和子、十四歳秀嗣、十二歳秀昭が死亡した。
「乳児だった久子は、窒息するように死んでいました。和子の頭は割れていました」幸子。
幸子は息を殺して、男たちが去るのを待った。
「夜になると、ソ連軍の戦車が大勢ライトをつけてやってきました」
次の日13日午前3時ころから、関東軍兵士の里瀬勝〈現在北海道広尾町〉の部隊は前進を始めた。そして午前5時ころに、自決現場にたどり着いた。
「400人くらいの人々が、山の斜面に座っているように遠くからは見えました。しかし、近づくと整然と人が固まりあって倒れていました。殆ど全て銃によるものです。 穏やかな死に顔の方が大半だと思います」
里瀬勝の部隊がやってきた時、幸子たちは息を殺し見つからないようにしていた。日本人の男に見つかれば、殺されると幸子たちは考えていた。
里瀬勝の部隊が、
「現場に立ち寄ったのはわずか20分くらいです。そこから30分後には、私達はソ連軍の砲撃をうけて殆ど全滅してしまうんです」
事件の二日後の8月14日も、快晴だった。幸子と妹政子を含む9名が奇跡的に生き残っていたが、そこにソ連兵が現れた。更に泥水を飲んだだけの幸子たちの前に、3人(2人?)の中国人が現れた。
彼等の目的は日本人の残していった物を、手に入れる事だった。ソ連兵は、彼等3人にそのうちの幼い子供7人を、引き取るよう指示をした。自動小銃を手にするソ連兵に、現地の中国人は逆らうことが出来ない。
ここの部分も、鈴木幸子は
「ソ連兵は、いなかったと思います」と語っている。真実は、謎のままである。
3人(2人)の中国人のうち1人は、張学政である。張は、馬車の荷台に7人の子供たちを乗せた。その時動けない老婆が、私も連れて行って欲しいと手を差し伸べた。張は、「だめだ。だめだ」という態で、それを遮った。
「私が一言、おばあさんも連れて行ってと言えば良かったんですが言えませんでした。あの佐々木さんのおばあさんは、あそこで亡くなったと思います。佐々木良一さん宅のおばあさんだと思います。藪崎さんの青年も、生き残っていたのですが。
そのあと開拓団のものだった馬車にのせられ、青竜部落に連れていかれました」 幸子。
私たちが訪問した2005年10月23日、幸子さんは自分と家族が倒れていた場所も、貝沼団長が自決した場所も記憶していた。事件の翌々日、水を求めて這いながらたどり着い小川もそのまま残っていた。彼女の指さすひとつひとつの場所に、60年前の記憶がよみがえる。二日前に降った雪の白さが、私達の心にしみた。
青竜の部落で、7人の子供たちは中国人の家庭に分配された。満6歳の妹政子と満8歳の幸子も、引き裂かれた。別々の家庭に、引き取られたのである。妹の政子は、泣き叫んだ。
不安と絶望で、泣き止むことがなかったのである。それから数日後、見かねた中国人が幸子の引き取られた張学政の家に政子を連れてやって来た。こうして姉妹は、一緒に暮らすことになる。
幸子政子姉妹は、中国人として育てられる。張学政夫婦には、子供がなかった。
まずは、日本語の使用が禁止された。日本人の子供を匿うと、村全体がソ連軍によって皆殺しになるという噂が流れ、張学政たちは警戒した。
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