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従軍慰安婦 姜 日出さん
カン イルチュル
大韓民国
(2004 6 北海道新得町で語るカンさん〉
〈自分で描いた牡丹江で焼かれる瞬間の絵〉
〈講演の翌日 北海道富良野で〉
〈2007 3 10 帯広市での講演〉
姜日出 カンイルチュルさん は1928年10月26日生 現在ソウル近郊にある「ナヌムの家」にお住まいです。2004年6月と2007年と2008年の3月に帯広市にいらして講演などをされています。3度の講演を聞き、彼女の体験をまとめてみたい。日本軍の従軍慰安婦にされた女性は、朝鮮半島全体では3~30万人と言われ、その実態は分かっていない。
日本による、強制的な徴用が1942年をピークに半島各地で展開された。村ごとに割り当てがあり、男子は労働者や兵士として、女子は労働者あるいは「慰安婦」として徴用された。当初は「うまい話を持ちかけだます手口」が使用されたが、その後は「人狩り」のような強制的なものが中心になった。
カンさんが捕らわれたのは1942年である。家は京城北道尚州(サンジュ)にあり、裕福で多くの土地を所有していたが、ある日警察と軍隊がやってきた。兄が徴用から「逃走」したため、カンさんがその身代わりのような形になった。カンさんも一旦は逃亡したが、近隣の金村(キムチョン)で捕らえられたしまった。
すぐに満州に連行され、安東、瀋陽、長春、哈爾浜、牡丹江、吉林省などを転々と移動した。
「牡丹江でで日本人の将校に殴られました。怪我したんですよ。今も鼻血がよくでます。今朝も出たんです」この恐怖の体験が、心的外傷ストレス症候群となっているという。
「体が弱く腸チフスにもなりました。哈爾浜の病院に入りました。731部隊の話はそこで聞きました。そこに連れて行かれるか不安でした。
しかし牡丹江に連れて行かれ、そこで使い物にならない慰安婦は処分されることになったんです。
大きな穴が掘られて、そこに落とされて火をつけられたのです。私はたまたま他の人の上にいました。そこに突然解放軍がやってきて助けられました」。戦後もそのまま中国に残り、朝鮮人と結婚したが
「国共内戦の時に兵士として出かけて、戻っては来ませんでした。子供が1人いましたがその子も病死ししました。何度も皮に飛び込んで死のうと思いました」。38歳の時に中国にいた韓国人の夫と再婚している。
「韓国に戻ったのは2000年3月のことです。新聞に帰国を呼びかける記事を見つけたんです。夫は死亡しましたが2人の子供を連れて戻りました。12人いた兄弟で生きていたのは私をいれて二人だけでした。言葉を忘れてしまって、電話も出来ませんでした」。韓国では「慰安婦」を名乗り出た人はわずか200名という。月々6万円の援助金が出ている。
この話を聞いた翌日、私は地元をご案内した。どんなところに行きたいですかと尋ねると、迷わず「山が好き」という。新得町のホテルから景勝地の「狩勝峠」「富良野」などを巡った。ボランティアの矢嶋さんの通訳で楽しい会話もできた。
三年後、2007年と2008年 平和団体の招きで地元帯広市で再会することができた。2004年のときは中国語での会話が中心であったが、このときはすっかりハングルが回復しており、私はとても安心した。長生きして欲しい。
〈2008年3月8日の講演 右は村山一兵さん 北海道帯広市で〉
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