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    トゥールスレン
            
ポルポト政権の狂気Ⅰ
                               
  
カンボジア                       

  
           〈大河メコンの南側に首都プノンペンの町が広がるが、高層建築がないことに気づく。2005 12 28 〉
                
 
 
  
        〈最初に乗ったバイクタクシー。15歳の少年だった)

  
      〈現在はToul Sleng Genocide Museumになっている)

  
        〈始めから拷問室の展示に始まり、足が震える〉

  


  


  
              〈足かせはとても重い〉
  
   
              〈建物から庭を見る)
  

 

トゥールスレンTuol Slengとは、極端な社会主義政策をとったポルポト政権が、19764月ころプノンペン市内に作った政治犯収容所である。

 その存在は秘密とされ「
S21」という暗号名が使われていた。トゥール・スレンとは地名である。建物そのものは、元の高校の校舎を使用している。

 私がここを訪問したのは、20051228日のことである。台北からプノンペン行きのchina airlineを使い、到着後直ぐに予約していたゲストハウスに荷物を置き、恐る恐るバイクタクシーにのり訪問した。

 ポルポト政権の母体はいわゆる「クメール・ルージュ(カンボジア共産党)」であるが、29ヶ月の間に14,00020,000人が収容されたと言われ、そのうち生還できたのは8人あるいは7名ともいわれている。

19791月にベトナム軍はプノンペンを制圧したが、クメール・ルージュは撤退・逃亡した後だった。翌日、ベトナム人の従軍記者が異臭に気づき、この施設を発見した。A1階の尋問室でクメール・ルージュが撤退間際に殺害した14人の遺体があり、収容所全体では50人程度の遺体があった。また膨大な収容・処刑記録の文書が残されていたという。

内部には発見時のままに保存されている拷問室や、1,000名ほどの収容者(一部は少年・少女看守)の写真があり訪問者の胸をえぐる。ポル・ポト政権下で政府高官であった者も、「党中央」以外は逮捕・処刑された。特に疑いをかけられた政府高官の妻子は、逮捕後迅速に処刑された。写真は外務副大臣の妻であったチャン・キム・スルンさんである。

      


 

 

 
          〈遺体の写真も少なくない〉

  カンボジア現代史

シハヌーク国王の下で1949年にフランスから独立後、ベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカと南北ベトナムが介入し内戦状態となった。1968年には米軍の空爆が始まり、1970年には新米派のロンノル将軍のクーデターによりシハヌーク国王が追放され、クメール共和国が樹立された。

内戦は激化し、空爆がカンボジア全域に拡大され数十万人が犠牲となると、クメール・ルージュ勢力の伸張をまねいた。1975年、極端な共産主義を掲げるクメール・ルージュの独裁者ポルポト政権が成立。1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで100万人以上とも言われる死者が出た。虐殺の数については5万~330万と諸説がある。

1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒するが、その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。1989年にベトナム軍が撤退、199110月にパリ和平会議が結ばれた。

19923月から国連カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年には国連監視の下で民主選挙が実施された。9月に新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。


 
     〈物価は安い。エアコンつきで10ドルの部屋
             景色は無いが冷蔵庫もついていた)

  


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