トゥール・スレンで処刑された人々は当初、近くの小学校跡などに埋められたが、じきにそこも満杯になり、しかも処刑時の叫び声が響く事などから、1977年には処刑・埋葬場がプノンペンの南西15kmのチュンエク村に移された。のちにそこが「キリング・フィールド」と呼ばれることになった。
もともとキリング・フィールド(The Killing Fields)とは、ポルポト支配下のカンボジアで大量虐殺が行われた処刑場跡のその俗称であり同時に総称でもある。従ってカンボジア国内には、このようなキリングフィールドが 320ケ所ほどあると言われている。
とにかく私は、「トゥールスレン」を見学した後、再びバイクタクシーでその代表的な「チュンエク村」の「キリングフィールド」に急いだ。
何せ私はカンボジアに入国したばかりで、治安の状況も日の入りの時刻もまだ把握しておらず、安全を考え運転手も慎重に選んだ。
街中を出ると赤土の未舗装道路が続く。乾季の乾いた風が気持ちよい。40分ほどバイクに揺られ、辿り着いた。
入ると直ぐに高い慰霊塔があるが、覗いてびっくり。頭蓋骨が積み重ねられている。その総数8.985人分といわれている。
トゥールスレーン収容所で殺害された収容者の遺体はここへ運搬され、いくつかの穴に分けて埋められた。一度に遺体が埋められた最大数は450人。穴の総数は86ほどあるという。
なるほど小道の脇に、大きな穴があちこちにある。問題はその小道であった。人骨が土の中から、飛び出しているではないか。しかも人骨だけではない。処刑された人々の衣服がそのまま遺骨と一緒に、地面から姿を現している。
人口1千万人のうちポルポト支配の2年間に、200万から300万人の市民が虐殺されたといわれている。直接の殺害は半分程度、残りの半分は食糧不足などによるようだ。知識人を始めとする農村への強制移住は、よく知られている。
シェムリアップの街で私は、利用したバイクタクシーの運転手ポーさん〈写真上〉に尋ねた。
「あなたのご家族で、犠牲になられた方はいらっしゃいますか?」彼は答えた。
「私の父と祖父が殺されています。私は現在30歳です。1975年つまり30年前、私がまだ母のおなかに入っているときの出来事です。2人とも銃ではなく、刀のようなもので殺されたそうです」。
〈プノンペン市内はバイクが中心)
〈世話になった運転手)
〈利用したゲストハウスとその前の通り)
〈タランチュラの佃煮をおやつに食べる習慣があるらしい)
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