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        ひめゆり学徒と宮良ルリさんⅡ
                                   みやら
 

  沖縄県糸満市                                                     
        
    
                      ひめゆりの塔と宮良ルリさん  2005 11〉

 
 
      〈南風原陸軍病院のあった黄金森

 
         〈陸軍病院の記念碑〉

 
          〈黄金森の内部 2007 1 〉  
  
 
         〈「悲風の丘」の記念碑 2007 1〉  

 
        〈ルリさんがいた24号壕の入り口) 


  
         〈陸軍病院への入り口のひとつ)
  
  
             〈病院内部の様子)  

   南風原陸軍病院
 
 3月に入りルリたちは、南風原陸軍病院に移動することになった。
第32軍(沖縄守備軍)直属の沖縄陸軍病院は当初、那覇
に置かれていた。

ところが10月10日の空襲によって施設が焼失したため、南風原分院のあった南風原国民学校に移動していく。昭和20年3月23日に米軍の空襲が始まると、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒と引率教師237人が、看護補助のため動員されることとなった。彼女たちは戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれていくわけである。

 ルリたちはそこに立てられた粗末な「三角兵舎」に入れられた。3月29日、首里から野田校長と西岡部長が列席しここで卒業式が行われた。生徒たちはうれしさに走り回り、鼻が咲いたように明るくなった。しかし卒業式は蝋燭の灯りの中、卒業証書も無かった。

 砲声の聞こえる中、その情けなさに生徒たちは涙を流し、すすり泣きがやがて嗚咽に変わっていった。
「海ゆかばの合唱が終わると直ぐ、部署につけという号令がかかり、感傷にひたる間もなく壕堀り作業などに散っていきました」。

 三角兵舎はその直後爆撃で破壊され、生徒たちは23号壕と24号壕に振り分けられ、ルリは24号壕に入った。壕の中は炭酸ガスが充満していた。中にはいつも蝋燭がともされていたが、それは灯りのためだけではなく、酸素不足のバロメーターでもあった。

換気が常に必要であった。この作業を明るくリードしたのは、親泊千代(映画の中では沢口靖子)先生である。ほとんどの女教師が疎開したなかで、舎監の重責から彼女は生徒たちと行動を共にしていく。

4月1日に米軍が上陸してからは、負傷兵が次々に運び込まれるようになった。運ばれてくる負傷兵たちの阿鼻叫喚の中、看護女子学生たちの戦いが始まった。
「壕の中は狭く、血と蛆と膿の臭い、小便や大便さらに汗くさい垢だらけの体の臭いでむせかえっていました。火炎放射器で顔を焼かれ、包帯をぐるぐる巻きして目・鼻・口だけを出している兵隊、胸部を貫通されて呼吸をするたびに背中の傷口からジュージューと泡をだしている兵隊がいました。あっちでもこっちでも患者が看護婦さーん看護婦さーんと声をあげていますが、一体全体何から手をつけてよいのか、わかりませんでした。
 学生さんと呼ばれてそばに行くと、おしっこがしたいと言うのです。缶詰の空き缶をもって行き、ここにしてくださいと言いました。よく見ると、その兵隊は両手が切断されているのです。空き缶をもつ自分の手が、ぶるぶる震えました」

破傷風の患者も、増加していった。
「たいした傷でもないのに、いつの間にか口から泡を出して死んで行くのです」不十分な医療器具、麻酔無しの手術。重症患者たちは、次々に死んでいった。麻酔等はすぐに底をつき、手術は麻酔無しで行われた。

手術の間患者が暴れないよう押さえること、切断した手足や死体の処分等もひめゆり学徒の仕事であった。ルリのいたロの三号壕で活躍していたのが、第一外科の上原君子婦長(映画では熊谷真美)である。
「とてもきびきびした方で、訓辞をいただくと、勝利の日まで頑張ろうという意欲がわいてきましたよ」その後上原婦長は、直撃弾を受けて即死したという。

4月24日ころ、増加する患者数に対応するため編成替えが実施された。南風原陸軍病院のすべてが外科になり、ルリは運命の第三外科に配属されていく。ここには20名の生徒が配属されて、昼夜の二交代制がとられた。
   死を覚悟の飯あげ

壕の外にある炊事場で米を炊き、それを壕に運び込む仕事を「飯あげ」と呼ぶ。それは、命がけの危険な作業であった。そして、その仕事を担当したのはルリたちである。
 5月24日の南風原での最後の飯あげも、ルリが当番であった。この日も激しい砲爆撃の中を、右に左に曳光弾をさけながら炊いた米を運んだ。

「運んできたご飯で、おにぎりを作ります。最初はテニスボールくらいの大きさだったのですが、だんだん小さくなってしまいにはピンポン球の大きさになりました。それを一個ずつ配るのです。朝夕二回だったのも、朝一回きりになっていきました。混ぜご飯の時が多くて、おかずを食べた記憶はありません」

戦闘の恐怖で、頭のおかしくなった兵も続出した。脳症患者である。
「つっこめっ、つっこめっと言って暴れたり、小便や大便を上段のベッドから出しっぱなしにしている兵隊もいました」包帯の交換も行われなくなり、蛆が負傷兵の傷口を覆った。

「学生さん、痛いよっー、痛いよっーと大の男が泣くのです。行って見ると傷口がウジでふさがり、肉を食べているのです。患者が咳きをするたびに、ウジはピョンピョン跳びだしてきます。痛かったでしょうねと言って、ピンセットで一匹一匹とってあげるのです。その一人の患者につきっきりの訳にもいかず、心を鬼にしてもういませんよ、全部とりましたよ、と嘘ついてその場を離れるのでした」

  南部への撤退

5月25日、軍の南部への撤退にともなって病院にも撤退命令が出された。
「敵が600メートル前方の宮平まで、来ているということでした。移動命令は、内密に伝えられていました」それは自分で歩けない重傷患者は、取り残されることになるから。

「壕から出て行く私たちの姿を見て、上に寝ていた重傷患者は転げ落ちてきました。狭い壕内の通路を這いずり、学生さん、連れてってとのたうち回っていました。私たちは一人でも多く連れて行きたい気持ちでいっぱいでしたが、その時入り口にいた将校が日本刀を抜いて怒鳴りました。患者を連れて行くやつは、たたき斬るぞと。学生さん学生サーンという声を聞きながら、私たちは壕をあとにしたのです」

すでに輸送力は低下し、食料や医薬品も不足していた軍は、独歩患者(一人で歩ける病人)以外の重傷患者には青酸カリや手榴弾をわたし、自決を強要した。
 この南風原陸軍病院で、処分された重傷患者は2000名を超えると言われている。ミルクに青酸カリを入れて、飲ませたと言われている。そしてルリたちには梅雨空の中、雨と泥にまみれ、南の島尻を目指した死の撤退が始まった。

キャベツのキャッチボール

 撤退の夜は、大雨であった。死体がごろごろ転がっている道を、ルリたちはずぶ濡れになりながら南へ進んだ。砲弾を避けるために畑を通り、東風平(こちんだ)・富森(ともり)・真壁・伊原・山城と進んだ。そこで一つの壕にたどり着いた。
「やっとの思いでたどり着いた壕でした。疲れがどっと出て暫く土の壁にもたれて眠ってしまいました。しかし突然、ここは山部隊の壕だから出ろという声に起こされ、追い出されてしまいました。もと来た道をもどり、糸洲の照屋キクさんの家に学徒隊が集まっていると言うことでそちらに向かいました」

糸洲の集落は、戦争が嘘のような静けさにあふれ、畑にはキャベツなどが青々と育っていた。ルリたちは走って畑に入り、人参を畑から抜き取り土をはらってガリガリと齧った。そしてキャベツをとっては、はしゃぎ回った。
「友人たちと、ほーらキャベツよとボールのように宙に放りあげ、取り合いました。二ヶ月ぶりに青ものに巡り会い、思わず生のままかぶりつきました」

「キャベツと云っても、小さな芽キャベツでしたよ」水も、驚くほど豊富にあった。アシ川という川に、「水だー。水があると言って、どボンと服を着たまま飛び込みました」
 何ヶ月ぶりの、洗面であったろうか。わずかなひととき、ルリたちは戦争を忘れた一瞬であった。

     
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