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張作霖爆殺事件
ちょうさくりん
満州某重大事件
中華人民共和国黒竜江省
〈次々と列車が通過する。瀋陽市内地になっている〉
1928年6月4日早朝、軍閥張作霖(ちょうさくりん)の乗った列車が爆破された。乗っていた張作霖は死亡した。当時は”満州某重大事件”として扱われていたが、真相は蒋介石の中国革命軍に追われて北京を退去する張を、関東軍が暗殺して満州を軍の支配下におこうとして起こした事件である。
計画者は、参謀河本大作大佐である。張作霖の特別列車を、満鉄線とのクロス地点で満鉄陸橋下に仕掛けた爆薬により爆破した。陸軍はこれを「南方(革命軍)便衣隊のしわざ」と発表している。
真相は、現地関係者からすでに洩れていた。陸軍は調査団を現地に派遣し、元老西園寺公望は田中義一首相に「万一にも日本の軍人であることが明らかになったら、断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなければならぬ」と語っている。
田中首相は天皇に「張作霖横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものある如く、もし事実であれば法に照らして厳然たる処分を行うべく」と奏上した。陸軍中央の調査によって真相は判明したが、陸軍は隠そうとした。村岡長太郎関東軍司令官・荒木貞夫参謀本部作戦部長ら上原勇作元帥系のグループは真相隠蔽をはかった。無論、河本大佐も同様である。
一年後の昭和4年6月、陸軍の要求どおり田中首相は、この事件に日本人は無関係であるとし、警備上の責任から村岡関東軍司令官を予備役に、河本大佐を退役などの行政処分にしたにすぎなかった。田中義一首相は、陸軍の圧力に屈したわけである。天皇は「この前の言葉と違うではないか」と叱責し、田中首相は7月に総辞職している。
この張作霖爆殺事件(奉天事件)現場は、現在の皇姑屯(こうことん)駅の近くにある。京奉線とかつての満鉄が、クロスする地点である。私達がその爆殺地点を訪問したのは、2004年8月14日の夕刻午である。タクシーの運転手は、張り切って現場に向かう。なるほど上を当時の満鉄が走り、下を北京と奉天を結ぶ京奉線が走り、ほぼ直角にクロスしている。爆薬を上の鉄橋部分に仕掛けて、列車がその真下を通過しょうとしたときに爆破したと言われている。車両は崩れ落ちた鉄橋に押しつぶされ、張作霖は自分の屋敷の張氏帥府にかつぎ込まれたがまもなく死亡している。彼には6名もの正式な婦人がおり、第5婦人に看取られて息を引き取った。二つある橋脚ののうちひとつは、元のままの石組で出来ており(写真右側)、もう一方(写真左側)はコンクリートで出来ているらしい。コンクリートで出来ている方が爆破のため破壊され、後で修理されたとされている。
現場の皇姑屯(こうことん)地区は、瀋陽の比較的中心部にあり、線路を住民たちが日常的に横断している。散歩の犬を連れている人も多い。線路の周辺には、仮設の小屋が立ち並びここで生活している人も多く、生活の匂いを感じることができる。
とにかく、この事件では関東軍の独走は失敗に終わった。政府がそして世論が、関東軍の暴走を阻止することができたのである。それから3年後、柳条湖事件の時はそうはらなかったのである。
〈同行した千葉君福家君 2004 8 14〉 〈張作霖は瀕死の重傷を負い、自分の屋敷に担ぎこまれた〉
〈左側の第五婦人に看取られた「張氏師府」の展示 〈張学良の展示物〉
2002 8 〉
〈瀋陽北駅〉 〈ハルビンから瀋陽行きの列車内〉
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