HOME〉Manchuriar                                                 Manchuria >2004


        八路軍に入った少年                                      
                   柳毛開拓団の運命Ⅴ 後藤稔さん
 

 
中華人民共和国黒竜江省                                                                                
  
      
               〈新香坊収容所の跡地。現在も立ち入りや撮影は難しい。後藤さんと警備員 2004 8 13〉                   
 
 
           〈新香坊収容所の入り口で〉

 
       
 
      〈見つけたポプラの木の前で)


 
  
〈そのポプラの木はこの病院の裏手にある)

 
      〈永安小学校の跡地で〉

 


 
      〈撫順のこの河岸で、死者は荼毘にふされた〉

 
        (しばらくは公安恐怖症になった〉

日本と戦った中国共産党軍は、一般的に八路軍(はちろぐん)と呼ばれているが、その八路軍にいた日本人少年が後藤稔さんである。彼も北海道清里町札弦(さっつる)地区の出身である。父後藤與吉と母そして、1人ずつの弟と妹の5人家族で満州に渡る事になる。ソ連参戦による逃避行は、他の柳毛開拓団の人々と同じ道を辿っている。

『避難列車の途中で轢死した人は、私の叔母ですよ。そして哈爾濱(ハルピン)の新香坊に行ってすぐに、妹の悦子が亡くなりました。まだ3歳くらいでした。ポプラの木の下に埋めましたが、火の玉を随分と見ました。畑仕事も随分させられましたが、銃弾が飛んできたこともありました』。

新香坊難民収容所

 経緯学校に収容されていた柳毛釧路開拓団の一団が、新香坊難民収容所に移送されたのは、昭和20年9月のことと思われる。
 今回同行した後藤稔さん・君島節子さん・橋本節子さんも含まれていた。ここは当時、満蒙青少年義勇隊の訓練所として広大な農地と敷地をかかえていた。しかし、食糧と衛生事情は悪化する一方で、体力のない幼児から死亡していった。後藤さんは、3歳の妹悦子さんを間もなく無くしている。
 君島さんは10月7日に2歳の弟勲(いさお)さんを、橋本さんは10月19日に4歳の妹修子(のぶこ)さんをそれぞれ失っている。そして福岡正雄さんの父親も、ここで亡くなっているらしい。

この四人の遺族を、この地を訪問させることは、2004年訪中の重要な課題であった。しかし、中国公安当局は私達の訪問を許可しなかった。私たちは、8月13日の午後旅行団の添乗員に気づかれぬようメンバーを小グループに分け、秘密裏にタクシーを拾いバラバラで訪問することにした。まったく馬鹿馬鹿しい話であるが、4つの小グループはこっそりとホテルの裏通りでタクシーを拾った。

私は、目立たぬよう後藤稔さんとの二人連れである。新香坊難民収容所は、現在『新香坊農業実験場』になっているらしい。
 しかし、地図上の位置は定かではない。今回同行している作家の合田一道氏に尋ねて、おおよその位置だけは分かる。とにかく『新香坊農業実験場』で、理解してくれる運転手を探し出すことが先決だ。年配の運転手を選び、声を掛けて見る。1人目の運転手は、大きく頷いた。
『しめた。どうやら、分かっているようだ』。タクシーは広い立体交差の道を、南東の方角に進む。15分もすると、大都市哈爾濱(ハルピン)の市街区は途切れて、農場めいたものが見えてきた。どうやら、とても広い場所らしい。

とりあえず、『入り口に』と伝えるが、入り口などいたるところにある。ある入り口から農地に、タクシーが入った。すると途端に、警備員のような男たちに取り囲まれてしまった。公安の車がある。胸章などを見ると、公安と警備員たちらしい。
『何をしに来た?』と、詰問してくる。まさか、
『日本から慰霊に来た』とは言えまい。咄嗟の出来事で、

『観光にきた。旅行だ』などと、不自然な答えしか思いつかない。どうやら、単なる農場だが国家機密に属する地点らしい。

農場内での撮影は厳禁らしいが、農場の外からの撮影なら問題ないらしい。まったく馬鹿馬鹿しいが、笑顔を振り撒いて撮影することはできた。しかし、ただ広い農場だけがあり、肝心な当時の宿舎などは見当たらない。後藤さんは、
『実は、死んだ妹は病院の裏のポプラの木の下に埋めたんですよ』と言い出した。そこに年配の方が現れ、後藤さんと中国語での会話になった。どうやらその病院が、近くにあるらしい。タクシーは急行した。

『香農医院』という名の病院が建ち、その建物の裏にポプラ並木が見える。『あっ、ポプラがある』と、後藤さんが叫ぶ。私達は、足早に建物の裏に廻った。
『3本目のポプラの、下なんです』。59年がたち、当然ポプラも生え変わっている。どれが三本目かは特定できないが、確かにこのあたりであろう。
 老人が現れ事情を話すと、現在も土を掘ると遺骨が現れるという。

フーシュンそして兵士へ

その後、多くの開拓民同様に昭和20年11月に撫順(フーシュン)で越冬することになった。収容先は君島節子さんと同じ、永安小学校の体育館であった。
『そこで、みんな死んだんです。父が亡くなり、そのあとに母カネが亡くなりました。発疹チフスですね。5才下の弟のは、施設に預けられてその場所で亡くなったらしいのです』。こうして、稔は満13歳ですべての肉親を失った。
『悲しいとか、そんな感情は無かったですね』。やがて従姉妹の女性つるこを頼り、彼女の嫁ぎ先に住み込む事となる。
『年が明けてから、町でアメを売ったりしていました。近くに国民党軍の幹部養成訓練所があったんですが、そこにお世話になる事になっていったんです』。言葉等は、どうしたのだろうか。
『日本人は、一人もいませんでした。21年の4月ころでしたね。言葉も必要に駆られて、どんどん憶えて行きましたね』

わずか13歳の少年にいつの間にか上等兵の階級がつき、給料も手にしていた。中国共産党軍の進出が噂され、国民党軍は軍用列車で移動することになった。昭和21年8月の事である。
『列車が発車しそうな頃、従姉妹のつるこが迎えに来たんですよ。日本に帰ることになったから、一緒に帰ろうと。でも、もう他人の世話になるのも辛くって、そのまま列車は発車したんです』。こうして稔は、自分の力で生きていく事を選択していった。

後藤稔は、国民党軍の少年兵の道を選んだ。承知の通り、蒋介石の国民党軍はその後、毛沢東の共産党軍との内戦に敗れて台湾に逃れ、中華民国となり現在にいたっている。国民党軍の少年兵となった後藤稔は、長春あたりを中心に転戦を繰り返していた。

『仕事は、部隊長の世話係りのようなものです。武器を取ったりしていませんでした』。まだ14歳の少年である。
『八路軍との激しい戦闘が、あったんです。機関銃を撃たれて民家に逃げ込んだあと、他の大人たちと八路軍の捕虜になったんですよ』これを機会に、今度は八路軍の兵士となった。

『私はね、器用さが見込まれて衛生部に回されたんです』こうして、野戦病院で生活することとなった。中国語も上達し、周りの中国人と区別できないようになっていく。
『私のいた師団の最高司令官は、林彪(りんぴょう)でした。独立2師団第4野戦軍145師団と、記憶しています。私の野戦病院には、日本人の医師や看護婦もいましたよ。日本人同士でもね、中国語で会話していたんですよ。八路軍でも給料は、出ていましたよ。使う機会がないんですけどね』。

 テレビドラマ『大地の子』で有名になった『長春包囲戦』を体験している。
『チャーズ(関所)が、あったんです。両軍のこの関所の間の真空地帯に閉じ込められた住民が、大勢餓死したんです。このチャーズを抜けてきた人々に、食べ物を渡したんですが、いっぺんに食べると死んでしまいますから、お粥を食べさせたんです』。
 その後、奉天包囲戦に戦線が移る。日本人医師の児玉氏の手伝いをする仕事につきながら、戦線を移動して行った。
『移動は、全部歩きですよ。士気は高かったですね。規律も厳しかったですね、途中で女性に手をだした兵が死刑になっていました』。

八路軍の、鉄の規律の一端を伺うことが出来る。奉天(現シェンヤン)から、天津・漢口・長沙・桂林という途方もない距離を移動している。
『桂林で、砲兵に志願しました。数学もまともに勉強した事がなかったのにやはり器用さが見込まれて、観測の仕事をさせられました。日本人が8人ほど集められていました。みんな中国語を、話しをしていました。特別日本人という事で差別されたりしませんでしたが、年に一度の共産党流の自己批判の時は辛かったですね』。

 このころ、中国の国共内戦は終了している。蒋介石の国民政府は台湾に逃れ、毛沢東は北京で中華人民共和国の建国を達成している。
 それと同時に、後藤稔も八路軍を離れた。武漢(ウーハン)に戻り、日本人は各単位に分配されていった。後藤稔は、武漢の造船所に一年間勤務する事になる。昭和27年から28年のことである。
 そして昭和28年、上海から復員船『白山丸』に乗船した。舞鶴には、先に帰国した日本人の友人が迎えにきていた。
『もう、日本語も片言だったんです。聞き取る事は出来たんですけど、話すことができなかったですね』

 この時、後藤稔はまだ20歳の若者であった。日本の無謀な国策は、彼から全ての家族を奪い取った。



                         BEFORE〈〈    〉〉NEXT                      

inserted by FC2 system