〈青竜村の王さんと、当時水汲みをした井戸に向かう〉
〈現在の青竜駅。張学政は当時工夫だった〉
〈父の手に戻った後の、幸子さん政子さん姉妹〉
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学校にも行けず、生活は貧しくみんなが生きていくのが精一杯、終日労働に明け暮れる生活であったようだ。
「冬は特に寒くって、よく霜焼けになりました。薬などありませんから、鳥の糞を足に塗るんです。お風呂なんてありません。冬のある日、麻山の街に歩いて行く事になりました。街の入り口の電線に、何かがぶら下がっているのです。良く見るとそれは、人間の頭部でした。当時恐れられていた馬賊のひとりが捕らえられ、見せしめのためにそうされたのでしょう。長い髪が目立ちました。
当時の満人たちは子供が亡くなると窓から山に遺体を運び出し、狼に食べさせるのです。そうすると天国に行けるそうです。野犬のような狼が居ましたよ」
それから、二年後奇跡が起こる。父秀雄が、姉妹の前に現れた。何故、消息が分かったのだろうか。
姉妹が青竜の村に連れてこられて約一か月後、哈達河(ハタホ)開拓団の一部の避難民がこの村にたどり着き、村人から7人の日本人孤児のことを耳にした。幸子はこの開拓避難民のもとに呼び出され、ある婦人に日本語で自分たちのことを伝えた。
その婦人は、ここから500キロ離れた哈爾濱(ハルピン)のある難民収容所にたどり着いたあと、何万人もいる避難民の中から偶然にも父高橋秀雄と出会い、2人の姉妹の生存を伝えることができたのである。
なんたる、幸運であろうか。父秀雄もまた、難民の身であった。生きていることを知った子供たちのところに、すぐには行ける訳ではなかった。幾度も、病魔に倒れた。途中で暴民に、襲われたこともあった。
親子の再会には、実に3年の歳月を必要とした。
「父が、ある日突然現れました。父の言っていることは何となく分かるのですが、どうしても日本語が話せないのです。
政子の方は父親ということも理解できず、日本人は自分たちを撃ち殺すという先入観が先行し、父親に手を引かれると爪を立てて拒否したのです」
父秀雄は、一旦諦めることになる。そして、翌年再び父は現れる。
「父は、とても珍しい水ようかんを手土産としていました」
秀雄は簡単には諦めず、日数をかけて養父母を説得する。
養父母には実子が誕生していたこともあり、養母が先に納得した。
これを機会に、桂蘭・桂珍は幸子・政子に戻ることになる。
1949年5月9日のことである。3人は、徒歩で麻山の事件現場を訪問した。遺骨が、累々としていた。
「印鑑を拾ったんです。吉田と書かれていました。小学校の吉田先生のものだと思います」
こうして3人は、牡丹江へと進んだ。
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