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シンガポール華人虐殺事件
マレーシア シンガポール 歴教協『歴史地理教育』2006年8月号に掲載
〈市内中心部に建てられた「血債の塔」〉
〈市街地の多くをチャンナタウンが占める〉
〈この交差点に記念碑が建つ〉
しかしその紳士的な山下は、占領直後の2月19日にとんでもない命令を出した。彼は、18歳から50歳までの男子華僑を集め、「抗日分子」か否かの選別をする命令を発した。
わずかな質問の後「抗日分子」と判断された中国人華僑は、トラックに乗せられ海岸に連れて行かれ虐殺された。
当時のシンガポール華僑の人口は約60万人、そのうち20万人が指定された集合場所に集合した。命令に従わなければ、それは即刻処刑が意味されていたからだ。指定された集合場所の一つに、「サウスブリッジロード」と「クロス・ロード」の交差点がある。現在は、シンガポール中心街にある近代的な交差点の一つであった。そこに戦後50年の1995年に、記念碑が建てられた。
水や食料を持参した人々は何日もここで待たされ、抗日分子かどうか「検証」されたわけである。そして「抗日分子」と判断された人々は「サウスブリッジロード」の方向に連れ去られたという。
ではなぜ、中国人華人が狙われたのであろうか。日中戦争のさいに、マラヤ(マレーシア)の華人の多くが祖国中国の国民党政府を支援していたので、日本側には「華僑〈華人〉は反日的」という理解がもともとあった。従って日本軍は、中国戦線の経験からも華僑に対して占領後反日的な分子は直ぐに徹底的に処罰する姿勢を持っていた。
このシンガポールで「粛清」された人数は、日本軍は約5千名としているが、シンガポールでは4万から5万とされている。中国語では、これを粛清 (sook ching) と呼び、日本語でも「華僑粛清」と表記されている。
30年間シンガポールの首相を務めたリー・クエンユー自身もこの「検証」を生き延びた一人である。
では、彼らが連行された海岸とはどこであろうか。その海岸の一つにシンガポール国際空港(チャンギー空港)のそばにある「チャンギー海岸」がある。
地下鉄とタクシーを乗り継ぎ訪問したが、現在は海水浴場やキャンプ場になっており、市民の憩いの場であった。売店の店主に「記念碑」の写真を見せると「直ぐそこだよ」となった。上空を次々に、航空機が離陸し爆音が聞こえる。日本軍が陽動作戦として上陸したウビン島も目の前だ。
中心街から離れたここでこっそりと日本軍は虐殺したが、たちまち事実は市民に知れ渡っていった。
シンガポールの中心街にも大きな記念碑が建っている。地下鉄シティホール駅のすぐ前に聳える巨大な塔の正式名称は「日本占領時期死難人民記念碑」であるが、一般には「血債の塔」と呼ばれている。日本占領時期に犠牲となった約5万人の、慰霊塔である。この塔の存在を知る日本人は少ない。
日本の華人に対するこの「粛清」は、もちろんシンガポールだけでなく、中国系住民のいた占領地域全てで実施された。マレーシアのクアラルンプール・ペナン島・ジョホールバルを中心にそれぞれ数千人単位の犠牲者が出ているが、正確な数は現在も不明である。
私は世話になったタクシーの運転手に「華人粛清」の話を切り出した。運転手は、「戦争だから、しかたないよ。日本もイギリスもアメリカも、同じだよ。一番ひどいのは、今のアメリカだよ。何の抵抗もしないイラクに攻め込んでね、テロが起こるのは当たり前だよ。いや、一番のテロリストがアメリカ自身だよね。
わたしの祖父はマレー人でね、華僑のような目には遭わなかったんだ。ただ、日本軍の空襲は受けたんだよ。戦争だから仕方ないけどね、日本が犯したひとつの大きな間違いは、やっぱり中国人の大量殺人だよ」
現在でもシンガポールの人口約330万人のうち76パーセントが、中国系華人である。
〈虐殺の地のひとつチャンギー海岸と記念碑〉
〈現在も刑務所として使われているチャンギー捕虜収容所〉 〈セントーサ島にあるテーマパークで 〉
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