HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-10 フェザーストン発砲事件と看護師ドロシー 水野 護さん ソロモン諸島 2010年4月特別取材 |
〈献身的な看護をした看護師ドロシーオルドリッジさんと日本兵が送った絵) |
〈上は来日した姪にあたるデービスさん 下は水野さんご夫妻) |
水野護に声をかけたのは、まとめて捕虜となった飛行場建設の日本人作業員たちであった。 アメリカの記録では、この戦闘での兵士の捕虜は14名または13名とされているが、水野さんの記憶では「8人だと思います。中山(稚内)さん、熊林(旭川)さん、相沢(岩見沢)さん、真鍋(雨竜)さん、宮崎守(標茶)さん、和田少尉などです」。彼らは日本側の戦死者777名の中に入っている。 「一週間ほど米軍テントにいて、船に乗せられました」。 負傷した者は、ウェリントンの陸軍病院に収容され治療を受けた。ここで手厚い治療を受けることになる。 無傷の者たちはフェザーストン村に送られた。「フェザーストン収容所」である。有刺鉄線に囲まれた敷地の中に8人用テントが50余り、当初400名が収容された。 フェザーストン捕虜収容所発砲事件 昭和18年2月25日に、事件が起こる。日本の捕虜ら約240人が就労命令を拒んだのを受け、収容所側が鎮圧しようと発砲。日本側48人、ニュージーランド側も1人が死亡し、双方に多くのけが人が出た。 「古鷹」の乗組員たちは、日本を敗戦に導くような仕事はごめんであると作業を断ったところ、収容所長は「国際法上の規則では、関係ない仕事には就かせてよいことになっている」と答え、更に威嚇のため、上空に向けて一発発射した。それを聞いた監視兵が射撃合図と判断して自動小銃の引き金を引いたといわれている。 この事件を目撃した水野さんは、 水野護たちの収容所生活は4年に及び、帰国は1946年2月5日であった。負傷した両膝の治療はニュージーランドで充分行われていたが重傷であった。 その5月、ようやく故郷に戻った。 看護師ドロシーオルドリッジ ところで水野護さんは、ウェリントン陸軍病院で手厚い看護を受けた。当時の看護師の1人に、ドロシーオルドリッジさんがいらっしゃる。 2009年ニュージーランド在住の日本人佐原律夫さんを通じ、東京新聞と中日新聞が内容を紹介し、同時に絵の送り主探しが始まった。 この記事を目にした 他界している看護師ドロシーの代わりに遺族のデービス夫妻が2009年11月に来日し、南山学園で特別講演などを実施した。 敵国の兵士を、同じ人間として献身的に看護したドロシー。また絵を贈呈しドロシーに感謝した日本兵は、いったいどんな人だったのであろうか。兵士探しの情報提供は、現在も続けられている。 2010/05/04 |
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