HOME〉Guadalcaanal Guadalcanal Island >2003-08 地獄のニューギニア戦線 ソロモン諸島 |
|
〈上空からオーエンスタンレー山脈を見る) (ポートモレスビーからのオーエンスタンレー山脈) 〈ゴードンマーケットの入り口) (混乱するゴードンマーケット) 〈斎藤直次郎さん) 〈襲われる輸送船 ダンピールの悲劇) シオからウエワクまでは、直線距離で400キロもある。半月というのが事実なら、上陸地点はもしかするとシオではなかったかもしれない。とにかく大変な、密林の重装備行軍である。 「ウエワクといったって、集落もなにもないんだ。ジャングルにバラバラになって、部隊が居るだけさ。マラリアになってな、野戦病院に入院だ。入院っていったって、草の上に寝ているだけだよ。お粥しか食べ物ないから60キロの体重が45キロくらいになってな。そしたら幸運なことに船がきてな、入院の身だから脱出できたんだ。だけど、みんな脱出したいわけだから、上官に袖の下を渡すわけだ。わしも、時計を渡そうとしたんだけどな、そいつはいらんと言うんだ。わしの時計は止まっていたのさ、例のダンピールで海に投げ出されていたからな。とにかく、脱出できたんだ。そういえば、ニューギニアでは一度も原住民を見なかったな。人なんて、全然いないところだ」正に、幸運であった。その後斎藤直次郎は、南洋諸島を経由して広島に戻っている。 その後、ニューギニア各地に米軍が上陸した。米軍は「飛び石作戦」を取り、各地の日本軍を孤立させていった。ジャングルに潜む日本軍など相手にせず、 |
日本軍は、真珠湾攻撃以降マレー半島・シンガポール・フィリピン・インドネシアを予想越えるスピードで占領していった。特にオランダ領インドネシアの占領によって油田地帯を手に入れたことは、この戦争にとって欠かす事の出来ない条件となった。 日本軍は昭和17年1月、ニューブリテン島ラバウルを占領する。そしてガダルカナル同様凄惨な「ニューギニア作戦」は、昭和17年3月東部のラエ・サラモアを占領したことから始まる。日本軍には、ここからニューギニアの中心地ポートモレスビーを攻略し、オーストラリアからの連合軍の反攻を阻もうという狙いがあった。 この「ポートモレスビー作戦」は、「ガダルカナル作戦」と同時並行して行われ同じく全く無意味な作戦に終わっていく。 これが、「珊瑚海海戦」である。空母「祥鳳」と巡洋艦の攻略部隊を、空母「翔鶴」「瑞鶴」の機動部隊が支援する作戦がとられた。米は、空母「ヨークタウン」「レキシントン」で待ち伏せしたわけである。 その1か月後のミッドウェー海戦に、このヨークタウンは参加するわけであるから、アメリカの工業力には驚かされる。 一方米の攻撃によって「翔鶴」は大破し「瑞鶴」はスコールにより攻撃を免れた。この海戦で大破した「翔鶴」と艦載機を失った「瑞鶴」は、ミッドウェー作戦に参加することができなくなった。もしこの海戦がなく「翔鶴」「瑞鶴」もミッドウェーに出撃していたらどうなっていたのだろうか。空母6隻喪失などという事態になっていたかもしれない。この珊瑚海海戦によって、日本は海からのポートモレスビー作戦を諦めた。その代わりに登場したのが、無謀な陸路からの攻略作戦である。オーエンスタンレー山脈を踏破して、ポートモレスビーに殺到しようというものである。 これは実に360キロの距離があり、しかも道もない未踏の山岳地帯である。5千名の部隊を送った場合、米だけを徒歩で補給するには兵隊1人が25キロを背負い一日20キロを歩くと想定しても、3200名もの補給兵士が必要という計算が成り立つ。したがって、この作戦は理論上不可能である。 辻は当時マレー作戦に成功し「作戦の神様」とされていたが、3年前の大敗した「ノモンハン」の作戦も彼がたてたものである。結局この作戦で、6千名の日本兵がジャングルに消えることになる。 昭和17年7月第17軍は南海支隊をブナ付近に上陸させ、朝鮮人労務者千名とラバウルでの現地住民1200名に物資を担がせて、前進をした。8月26日山間部のココダを占領した先遣隊と合流し、9月12日にはイオリバイワまで前進した。ここから遥か南にポートモレスビーの灯を、見たという。 しかしニューギニア作戦にあてるはずの第2師団を、ガダルカナル島に急遽投入することになったので、9月23日この南海支隊をココダまで後退させることになった。しかし11月ころから連合軍に背後から攻撃されるようになり、南海支隊は退路を断たれて孤立してしまう。 こうして食料と退路を断たれた日本軍は、ジャングルの中に腐乱死体を散乱させてこの作戦を終えている。 まずニューギニア島だけでも、本州の2倍の面積がある。この「大陸のような島」に、現在も人口1万人以上の町は7つほどしかない。しかも国土が広すぎて、道路でつなぐことは無理な話である。都市(都市とはいえない集落である)間の移動は、飛行機である。 現在のパプアニューギニアの首都ポートモレスビーも、荒涼とした大地に集落が点々としているような場所であった。しかも、ボートモレスビーの市街地を一歩出ると、未開のブッシュとジャングルが果てしなく続いている。人々の暮らしも、一歩町を出ると石器時代的な未開のままの生活である。 現在も「素朴さ」が基本であるが、「素朴」だけではすまない国内事情をこの国は持っていた。貧富の差もあまりないブッシュの中での生活に、突然現代の物質文明が流入したのである。多くの発展途上国が経験している、現像であろう。人々の心は物質に揺り動かされ、犯罪・不正が横行した。 私は、ガダルカナルへの中継点として、この国の首府ポートモレスビーに立ち寄り、この国の現実の苦悩を垣間見た。往路で訪問した日には特別なことはなかったが、復路で訪問した8月15日に、私はこの国の苦悩を見せ付けられることになった。 ガダルカナルと違い、熱いが空気がカラッとしていて気持がいい。私たちはその気持よさに誘われて、ホテル前のバス停からこの国一番のマーケット「ゴードンマーケット」に向かった。路線バスは、10分ほどで目的地のマーケットにたどり着いた。降りようとすると、乗客の地元のおじさんが険しい顔で、 しかし、日はまだ高く大勢の人びとの姿が見える。おじさんは私たちの身の回りを点検し、私のバッグの口などを閉めなおしてくれた。「変なおじさんだなあ」と、その時は感じていた。 マーケットは、人で溢れていた。雰囲気は良くはなさそうだが、何時ものように人ごみに入った。カメラを回すと、群集に取り囲まれた。その瞬間、私のズボンのポケットに手が滑り込んできた。妻は、取り返したがサングラスを顔から毟り取られた。この時私は「危険」を初めて感じて、もとのバス停に戻ることにした。振り返ると、群集がマーケットの中央で騒ぎ出している。 「ひどいところだなあ」と思い、やって来た市内バスに私が乗ろうとした。その瞬間、一瞬取り残された妻に、男が近づきバックを引っ張り取ろうとした。なんとか、引っ張りかえし更に危険を感じて市内バスに乗り込んだが、今度はバスに一人の少年が上がりこみ更に妻のバッグをむしり取ろうとした。目の前の一瞬の出来事に私は大声をあげて周りにもアピールしたが、周りの人々は何もしない。 私は、バスの乗客全員の顔を見た。おろおろして、何もできない市民の姿だった。彼等は、逆に私をなだめるのだ。 「このバスは危険だから、一緒に降りよう。あなたたちは狙われている」と耳打ちした。私はとっさの出来事に、判断がつかない。他の乗客も降りだしたので、忠告に従うことにした。バスを降りるとその夫婦が、 「ここは、あなたたちの来るところではないのです。あなたたちは、狙われていましたよ。あのままバスに乗っていたら、バスの運転手たちにそのまま連れ去られ、貴重品を取られるだけではなく、殺されていたでしょう。ここからタクシーで、ホテルにお帰りなさい」私たちは、この内容に言葉を失った。 すると、そこに偶然見覚えのある方が現れた。つい先ほど、空港で私たちにこの日のホテルを紹介してくれた警備員の方だった。彼は私たちを見つけて、 ダンピールの悲劇 この「ダンピールの悲劇」を体験した方と、めぐり合うことが出来た。 満州そして中国南部に派遣されたのち、45日間輸送船に乗せられ昭和17年12月27日にラバウルに上陸している。そして「ダンピールの悲劇」に遭遇したわけである。 |
BEFORE〈〈 〉〉HOME |