HOME>Yunnan                                             Yunnan>china >Dcem 2009



              もうひとつの陸の玉砕 騰 越  
                                             とうえつ                                           

                                                  2010 5 十勝毎日新聞にて連載
  中華人民共和国雲南省                                               2009 12                                       
         
    
       〈来鳳山の麓からの市内と陣地のあった飛鳳山。その向こうに高黎貢山系の山々が続いている。 2010 1 1>
  
 
      <飛鳳山の山頂で、まき割りをする日本軍兵士〉
  
    
         
        
 (これが倭塚。愕然とさせられた〉   
 
  
    
      〈国民党軍兵士の塚が並ぶ〉
 
  
 〈日本軍兵士をたたき殺すレリーフにも愕然とさせられた〉
                  
  
        〈胸をうつ日本兵持参の家族写真〉

  
       〈白骨化した日本軍兵士の遺体〉

「シルクロード」と「玉砕の戦場」。なんと不釣合いな組み合わせであろうか。シルクロードは歴史上の概念ではあるが、「陸の玉砕」のひとつ「騰越(現在騰沖)」の町には、古代から東西を結ぶ交易路が通り「西南シルクロード」と名付けられてきた。13世紀にはマルコポーロがこの町に滞在し、彼の名が随所に残されていた。

龍陵から路線バスで3時間あまり、三千メートル近い悪路の峠道を越え辿り着いたのは大晦日の正午であった。ここは拉孟からは北西60キロ、雲南省怒江西岸では随一の都会である。思った以上に大きな町で、方向も直ぐにはつかめない。大戦中も、平野のほぼ中央に人口4万の城壁都市として栄えていた。ここで2千名の日本軍兵士(第56師団第148連隊)が、1944914日死守命令の果てに玉砕している。   

「騰衝国殤墓園」という園墓が、市内にある。ここでもやはり日本は一貫して、「侵略者」という視点で扱われていた。国民党軍は日本軍より遥かに多い9168名の戦死者をだしているが、「国殤墓園忠烈祠」という記念塔を中心にして放射状に氏名と階級が刻まれた3346基の墓が並んでいた。その中には「無名戦-烈士」と刻まれているものもあった。その数に圧倒される思いであるが、実は日本軍兵士の碑もただひとつ造られていた。

ホッとして居られない。その碑には「倭塚」という大きな文字が刻まれていた。「倭」とは勿論中国の日本に対する最大限の蔑視語である。愕然とする思いで見つめていると、立命館大学2年の古田君が、「花を買って、置いてもよいでしょうか」と言い出した。
 私は咄嗟に「この国の国民感情を考えて、止めたほうがよい」と答えてしまい、後に後悔してしまった。やはり、花を供えるべきであったろう。

「倭塚」の側には点々と記念のブロンド像が並んでいるが、真っ先にあるのは二人の農民が4人の脱走日本兵を棒で殴り殺しているという目を覆うものであった。また戦争記念館も併設されていたが、展示物のその多くは日本軍の残虐性を訴えるものになっている。信じられないような日本兵の行為が、紹介されていた。

また「地元住民の戦争協力」についても強調されているのが、特徴である。纏足てんそくの老女達三千名が不自由な足をおしてビルマルートや飛行場の建設工事に参加したり、また国民党兵士への食料の運搬に従事しその途中に自らは餓死してしまう女性の展示が目をひいた。

大きなレリーフには「1942年4月29日から1944914日までの859日間占領され、人々はありとあらゆる蛮行を受け、そして難民となった」と記されていた。

沈んだ気持ちになったが、別な意味で私の胸をえぐったのは、記念館に展示されていた戦死した日本軍兵士が持参していた家族写真であった。まぎれもなく日本のものであった。和服姿の日本人女性と二人の幼い子供が写っていた。

元旦の翌日、私たちは激戦の町を歩いた。国民党雲南遠征軍49,600名がこの町の奪回作戦にはいったのは、1944年の6月からである。この城壁都市を陥落させるには、周囲にある山岳陣地の攻略が先決である。

城壁の真南にある、標高1921bの「来鳳山」もその一つである。町の標高が1645bであるから、せいぜい300bの高度差である。山全体が公園として整備され、ホテルから一時間ほどで登りついた。現在美しい森林公園となり、爽やかな風が吹いていたが、この山で国民党軍は実に1000名の兵を失い、日本側の600名の守備隊もほぼ壊滅している。その直後から、国民党軍は本格的なこの町の奪回作戦に入った。

 町中を歩くと、当時の城壁も周囲8キロほどあることがわかる。「東西南北」の四つの門の位置、そして中央門は観光地として整備されていることも分かった。最後に玉砕した「飲馬水河」という水路も、現存していた。

この玉砕の地「飲馬水河」で私はあることを思い出した。「通信所に電話が来たんですよ。敵が来ている。さようなら さようならという内容でした。ミートキーナからとも記憶していましたが、時期を考えると騰越からのものだと思います」。と話してくれたのは、当時ビルマ中部カローで無線士をしていた池田町にお住まいの佐藤進さん(89才)である。「この辺りから、電話をしたのだろうか。電話線は、繋がっていたのだろか」と考えていると、上空を着陸態勢にはいっている航空機が目に入った。

二年前に空港が開港し、この地域は観光客の誘致に力を入れ始めている。近年急増している、国内の富裕層をターゲットにしたものである。「西南シルクロード」は現在、急速に変化を見せている。

  


   ■騰越〈沖〉への行きかた

 鉄道は無いが、バスの便がありとても便利。ホテルも整っている。
私は中心街の1500円〈2人で〉のホテルを利用したが、暖房が入り快適であった。








   
       
         〈当時の来鳳山と現在のもの。和順集落から撮影した。写真の乗り合いタクシーと観光客であふれていた。
                                                             入場料の1200円に驚く〉


                             BEFORE〈〈
   〉〉NEXT
                
   
inserted by FC2 system