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    べトちゃんドクちゃん
             
ベトナム戦争の残像Ⅰ

  ベトナム社会主義共和国                       

     
        〈グエンドクさん当時22歳 とてもハンサムだった。 幼児期の2人 ホーチミン戦争犯罪(証跡)博物館展示 〉
                
 
 
       
 〈同じく戦争犯罪博物館展示のもの〉

    

    
          〈仕事中だったグエンドクさん)
  

  
   〈入院している子供たち。車椅子のドクちゃんが見える〉

 

 ドクちゃんは、困った顔をしていた。いや迷惑だったかもしれない。本当に突然の私たちの訪問に、ドクちゃんは片言の日本語と英語で対応してくれた。20031229日月曜日の、午後のことである。

ホーチミン市西部にあるトゥードゥー病院に、私たちは60名ほどのいわゆる『枯葉剤』の影響でハンディキャップをもって生まれてきた子供たちの入院病棟を訪問した。日本で用意した学用品を持参しての訪問だった。

『テンさんのところに、行ってください』と、あちこち捜しまわり、子供たちの病棟にたどり着いた。部屋に入った瞬間、ドクちゃんが目に入った。
『えらいことになった』と、正直思ったが折角の機会に私たちは、ドクちゃんの近況などを伺った。

ご承知の通り、枯葉剤は米軍がベトナム戦争当時に散布したものである。北ベトナムの支援を受けていた南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)がジャングルの影になり手を焼いていた米軍は、手っ取り早くジャングルを死滅させようと考えた。
 こうして南ベトナムの
14%の土地に、枯葉剤をばら撒いた。その中には、猛毒のダイオキシンが含まれていた。この作戦を「エージェント オレンジ」と呼ぶ。

この散布は1961年~1971年にかけて行われ、ジャングルを破壊して解放軍の隠れ家 をなくすことと同時に、水田を破壊して解放軍の糧を断つことが目的であった。

ツーズー病院の年間の産科患者は約4万人、そのうち分娩は3万人だが帝王切開が約9千人と多く、母体死亡も年間15人である。そして奇形胎児の出生率は実に1/100以上。現在も年間300名を越える奇形胎児が生まれている。欧米が1/1000であることから10倍も高い。頭蓋骨内に髄液が溜まり、脳の発育を阻害する水痘症胎児が多く、顔面組織の形成異常も見逃せない。 

  本名 グエン ドクゥ 

1981225日 ベトナム中部高原ザーライコントゥム省サータイ地区で兄ベトとともに結合双生児として生まれる。

母親フエは1976年ころ枯葉剤のまかれた地域に移住し、農業を行っていた。彼女は枯葉剤のまかれた井戸で水を飲んだという。母親は2人をコントム病院に預け失踪。2人は1歳の時にハノイ市のベトナム・東ドイツ友好病院(ベトドク病院)に移送され、そこからベト〈越南、ベトナム〉)、ドク(徳国東ドイツ〉)と名づけられた。

1986年、ベトが急性脳症を発症、治療のために日本に緊急移送された。6月東京の病院で手術が行われたものの後遺症が残った。
19883月に母親と再会。その後ベトが意識不明の重体となり、2人とも死亡してしまう事態を避けるため、104日にツーズー病院で分離手術が行われた。17時間に及ぶ大手術は成功し、ベトには左足がドクには右足がそれぞれ残された。

2002年 義足製作の技術習得のために日本に留学。

分離後ドクは中学校に入学。中学校は中退したが職業学校でコンピューターを学び、ツーズー病院の事務員となった。一方、ベトは重い脳障害を抱え寝たきりの状態が続いた。

200612月、ドクはボランティア活動の際に知り合った専門学校生のグエン・ティ・タイン・テュエンと結婚。

2007106日ベトが腎不全と肺炎の併発により26歳で死去。20091025日、ドクの妻テュエンがツーズー病院で男女の双子を出産。それぞれ富士山と桜にちなみ、男児はフー・シー、女児はアイン・ダオと命名された。



          



         
            〈同じくホーチミン戦争犯罪博物館展示のホルマリンに漬けられた二重胎児 と 被害者写真〉

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