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   テニアン島の玉砕
                               

  
北マリアナ諸島                       
   
  
                                     
 
 
     〈現在も島に残る「南洋興発」の建物〉

 
            〈日本から渡った人々〉

 
            〈現在のカロリナス台地〉

 
     〈日本式の「住吉」神社が密林の中に残っている〉

 
          〈中心の集落「サンホセ」地区〉

  
             〈島は廃墟と化した〉

 
         〈島の南端のスーサイドクリフ〉
  
    
           〈日本人の入植地図〉
     


  私たちの島

「ここは、私たちの島なんです」きっぱりこう話す男性と、私はテニアン島で出会った。テニアンも、サイパン同様玉砕の島である。

「当時のお話を、聞かせていただけませんか?」
「私はアメリカ軍が上陸する前に、日本への疎開船に乗ったんですよ。ですから、私はその時の様子は分かりません。妻は島に残ったので、その時のことは妻から聞いてください」

そう語るのは、東京都西東京市にお住まいの竹内滋さんである。当時テニアン島には15000人の民間人が生活し、そのうち2000名ほどが疎開船に乗り、日本に避難した。そして私は、奥さんの恵美子さんと対面することができた。

恵美子さんは旧姓星恵美子さん、その星家は昭和3年という早い時期に福島県からこのテニアン島に、入植していた。従って、恵美子さんが生まれたのはテニアン島である。故郷は、この島というわけである。

「南洋興発の社長松江春次は、会津若松の出身なんです。そんな関係で、福島県からは大勢この島に渡ってきたんですよ」

恵美子さんたち親子の入植先は、島の中心地サンホセから程近いマルボ地区であった。当時のテニアン島はさとうきび王国となり、島中がさとうきびの畑となっていた。

「家は、さとうきびの栽培をしていました。でもね、私が小学校5年生の時(昭和17年)には、兄や姉たちは農業にみきりをつけ始めていました。仕事を求めてサイパンに渡り、長兄は軍の基地に勤めておりました。

その長兄はサイパンで戦死し、その兄の妻子と私のすぐ上の姉は引き揚げ船の亜米利加丸に乗り全員死亡したんです」この船に乗って助かったのは、三人の子供だけであった。 

アメリカ軍の上陸

そして、昭和19年を迎える。
「最初の空襲は、323日です。ある日、弟がサイパンの姉のところに行っていたので、迎えに行くために私はサイパン行きの船に乗ったのです。ところが、船が海に出るとアメリカ軍の空襲が始まったのです。 
 船はテニアンを出港して間もないので、新湊の湾に避難して客を降ろしました。私は夕方空襲が終わるのを待ち、真っ暗の中歩いてやっと家にたどり着きました」


 この日は、611日であった。サイパン上陸のための、アメリカ軍の空襲が始まった日である。その後恵美子たちは、避難生活に入っていく。
「はじめは町の防空壕にいたのですが、カロリナスの農家に避難する事になりました」
 サイパンの占領作戦をほぼ終了したアメリカは、次にグアム・テニアンへの作戦に移った。4000名近い予想外の戦死者を出したサイパンでの反省から、アメリカ軍はより慎重な作戦を取った。721日にグアム島に、そして24日にテニアン島に上陸を展開した。

夜明けの午前6時、上陸用舟艇100隻が、中心地テニアン(現サンホセ)の海岸を目指してきた。海岸から300メートルに接近した瞬間、一斉に日本軍の砲が攻撃を開始した。アメリカ軍は撃退され、沖合に戻っていく。
 カロリナス台地の砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、これらを見た日本軍は歓喜した。だがこれも、アメリカ軍の陽動作戦であった。

その直後の午前7時アメリカ軍は上陸用舟艇約150で、日本軍守備隊の手薄な北西海岸に上陸した。これが、「チュルビーチ」である。チュルビーチの守備隊は、この奇襲上陸に驚愕しそして全滅していく。

私が訪問した200518日も、幅300メートルの美しい砂浜が広がっていた。付近に民家はなく、時々観光客が訪問するだけの静かな海岸である。決して広くはない砂浜、ここにアメリカは奇襲上陸してきた。日本軍のトーチカが一つだけ、現在も残っていた。

テニアン島は、島の周囲の大半は切り立ったサンゴ礁の岩で出来ている。上陸できる海岸など限られているが、日本軍はまんまと騙された。ここでのアメリカ軍戦死は、僅か15名であった。

日没とともに日本軍の逆襲が、準備された。午前0時夜襲が開始されたが、猛烈な射撃と照明弾に日本軍はほとんど前進できないうちに夜明けとなり、約2500の戦死者を出して夜襲は失敗に終わった。
 当時の日本軍守備隊は、どうなっていたのだろう? 海軍は兵力約4400名に、僅かな高角砲と砲があるだけ。陸軍は歩兵4000名と、戦車が僅か9両であった。陸軍の歩兵4個大隊は、例の第29師団のものである。部隊の配置計画は変更が繰返され、腰を据えた守備計画は立てられなかった。

こうして合計8400名の日本兵が配置されていたが、このうち8200名が戦死することになる。テニアン島にいた15000名の民間人も、戦闘に駆り出された。
 16歳から45歳の3500名の男子民間人が義勇隊に編成され、兵士と共に玉砕攻撃に巻き込まれていった。

カロリナス台地

730日、島の中心地テニアン(現在のサンホセ村)が、アメリカ軍の手に落ちた。31日から8月1日にかけて、激しい攻防戦が続き日本軍は島南端のカロリナス台地に追い詰められていく。
 マルボなどの水源地がアメリカ軍の手中に陥ち、最後の抵抗態勢となった。この日アメリカ軍は、テニアン占領を宣言した。

この時恵美子たちは、どうしていたのだろうか。
「ジャングルの中の、洞窟にいました。ダイナマイトや青酸カリを持っている人は自決していきました。私たちは、何も持っていなかったんです。母が首をつろうとしたら、ある兵隊が『民間人には罪はないのだから止めなさい』と言いました。 
 この島には、川はありません。飲まず食わずで、一週間ほどいたと思います。はじめは、夜になると近くの民家に行って一升瓶に水を汲んでいたのですが、それも出来なくなりました。
 自分のおしっこを、子供に飲ませる人もいました。しかし子供が嫌がって飲まないので、自分で飲んでみようと試したがとても飲めるものではなかったのです。子供を殺せと言う兵隊も、いました。
 自分の手で、子供を海に放りこんだり、自分の手で子供を殺した人もいました。のこぎりで、子供の首を切ってしまった人もいたようです」

恵美子たちのいた洞窟は、カロリナス台地のどこかであろう。その台地は、中心地サンホセ村の南方目と鼻の先にあった。台地の岩肌には、無数の洞窟が遠くからも見える。周囲はうっそうとした密林で、現在も簡単には近づくことは出来ない。

標高150メートル前後の岩肌の近くに、神社の跡があった。「ジャパニーズ シントウ シュライン」と、英語の看板が立てられているが、現在も残る27段の石の階段と鳥居そして狛犬などは、紛れもなく「日本の神社」であった。かつての「住吉神社」である。

激しい戦いの果てにも、鳥居がしっかり残っておりその姿に驚かされる。このあたりの広場に、負傷した兵士や最後の突撃の兵士たちが集められた。しかし、その場所がアメリカ軍の知るところとなり、多くの兵士が爆撃で死亡したと言われている。

テニアン島は、狭い。決して大きくはないサイパン島に比べても、その半分の面積しかない。しかも、地形は平坦で農地や飛行場には適しているが、立てこもるには向いていない。アメリカ軍の投降を呼びかける放送も、始まった。

「水もお菓子もあげるから、出てきなさいという放送です。その年は、ただでさえ水不足だったのです。水をお腹いっぱい飲んで死のうと思い、洞窟を出たんです。
 サイパン島にいた姉と弟も助かったのですが、姉の三人の子供のうち二人は艦砲射撃で亡くなったんですよ」

アメリカ軍に、最後まで投降しなかった人々もいた。島の南端に、切り立った断崖絶壁の海岸がある。「スーサイドクリフ」と、名づけられている。

サイパン島の「バンザイクリフ」と同様、絶望した日本人が身を躍らせた海岸である。多くの慰霊碑が立っているが、犠牲者の正確な数は分からない。

断崖のあちこちには、天然の洞窟がありここにも多くの日本人が潜んだ。目に映る断崖の無数の穴は、米軍の海からの艦砲射撃の跡でもある。  1000名の兵士と民間人がこのあたりに潜み、捨て身の突撃を待っていたという。その多くは、アメリカの掃討作戦と飢餓に倒れた。
 しかし、同じ日本人の銃弾に倒れた人々もいる。「降伏を許さない軍隊」から逃れ、アメリカ軍のもとに行くことは極めて危険であった。 

同じ日本人にスパイ呼ばわりされ、命を失うことにも繋がったという。このような数多くの悲劇が、繰り広げられた舞台でもある。
 サイパンの「バンザイクリフ」は島の北端にあり、テニアンの「スーサイドクリフ」は島の南端にある。


  
      〈現在も島に残る海軍司令部の建物〉

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