HOME〉Thiland                                                     Thiland >2005 12


            
    戦場に架ける橋
           
クウェー川鉄橋 カンチャンナプリー                          
 
 
タイランド                       

                        
 
 
  〈大晦日の帰省ラッシュにぶつかり大変な移動になった。
  その後も途中でバスが故障し、乗り換えまでした。バンコクで〉

 

 
     〈現在のクウェー川鉄橋は観光客がいっぱい〉

 

 太平洋戦争初期、マレー半島・フィリピン・シンガポールを始め、各地で日本軍の捕虜になった連合国側の兵達は、いったいどこでどうなったのだろうか? 国際協定を無視した日本側の扱いは、過酷であった。

映画「戦場に架ける橋」で有名になったタイからビルマに至る「タイ麺鉄道」400キロの建設工事が、その象徴的な例であろう。映画そのものはかなり感動的に描かれているが、実際は人権を無視した「タコ部屋労働」的なものであった。

タイの首都バンコクから西に130キロ、「カンチャンナブリー」という町に映画のモデルになった「クウェー河鉄橋」があり、現在も実際に使用されている。

帰省ラッシュの中私が訪問したのは、2005年の大晦日であった。休日と重なり、予想を超える観光客が押し寄せ大変に賑わっていた。

その「クウェー河鉄橋」のそばに個人レベルの博物館があるが、内容が豊富でなかなか考えされるものであった。この鉄道建設には約8万人の連合軍捕虜が動員された。オーストラリア・オランダそしてイギリスが主な国で、アメリカの兵は少ない。
 鉄橋そのものは、当初は木造で作られたが度重なる米軍の空襲に何度も建て替えられ、最後は鉄でできた文字通りの「鉄橋」になった。その一部が、現在も使われているようだ。鉄橋は一日に6本しか列車が通らず、人々は自由に行き来できる。

多くの観光客と一緒に渡ってみたが、日本人の私にはやはり気持ちのよい物ではなかった。工事に従事する捕虜の身なりも、悲惨であった。逃亡を防ぐためと単なる衣服不足なのか「褌ひとつに裸足」である。映画では全く描かれておらず、褌とはなんと屈辱的な身なりであろう。

工事の途中で亡くなった捕虜の数は正確には分からないが、年中熱帯の太陽に焼かれ粗末な食料が手伝って万を超える捕虜が線路脇に倒れた。

当然線路脇には、遺骨が埋められている。私は展示されている二人分の遺骨を目に愕然としたが、それ以上にカンチャンナブリー市内に近年整備された「連合軍捕虜共同墓地」には、心を動かされた。数千人分の墓が並び、
「T・W・リッキー ロイヤルノーフォーク連隊 271943117日 私達の心の中で安らかに眠り給え 神はあなたの全てを知りたもう」
「B・ホープ軍曹 22歳 1943126日 あなたの記憶は深く永遠に私達の心に、あなたへの愛も永遠に」

 このように墓標のひとつひとつに、氏名やメッセージが記されていた。その多くは
20代の若者であるが、3040代の将校たちも数多く混じっていた。多くの家族が、帰国をまち望んでいたことだろう。戦争は本当に愚かだ。この鉄道工事には実は連合軍捕虜だけでなく、現地の住民も動員されていたこと忘れてはならない。彼らの真相は、現在も闇の中である。
 
  


  
                〈博物館の展示 褌姿に驚かされる。当時の写真でも褌姿が多かった〉

   
                    〈観光客用の体験鉄道 日本人は見当たらなかった。インド系の方が目に付いた〉 

   
         〈豪華観光国際列車が停車している〉                       〈観光客用の象〉

  
                                〈映画「戦場に架ける橋」のシーン〉

  
                               〈市内にできた「連合軍捕虜共同墓地」で


   
                       〈「連合軍捕虜共同墓地」と博物館に展示されている遺骨

   
                  〈水上コテッジに宿泊したが、夜中にトイレの水があふれだし避難〉

    

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