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鄭成功と台湾 Ⅱ プロビンシャ城
中華民国台南市
〈1653年オランダが建設したプロビンシャ城は台南市のシンボルで鄭成功の像が並ぶ。 2013 12 31〉
〈建設当時はやはり洋風だった赤かん城〉
〈現在の建物は清時代のもの 2013 12 31〉
オランダ支配が開始される以前の台湾先住民には、領土という概念がなく国というものも存在しなかった。倭寇などの海賊が時々やってはきたが、先住民を支配することはなくただ寄港地あるいは巣窟として使っていたに過ぎない。当時の台湾には熱帯特有の疫病が常にあり、とても外来の人間たちが太刀打ちできるものではなくそれが外来者の進入を拒んでいた。そこへいきなりオランダ人が侵入したことになる。オランダは先住民へはキリスト教による教化を行い、また武力で植民地経営への反抗を鎮圧していった。
こうして1624年オランダが東インド会社をその先兵として植民地支配を開始したが、この地を狙っていたのはオランダだけではなかった、大航海時代に飛躍したスペインが1626年に台湾北部の基隆を占領するが、これを見たオランダが1642年たちまちスペインを駆逐してしまった。
そしてそのオランダも1661年鄭成功(1624~62)によってその支配を終えていく。そしてその鄭氏政権もわずか3代22年で幕を閉じ、1683年には清の支配下に入っていく。プロビンシャ城
前頁で紹介したゼーランジャ城(ゼーランディア城)は、僅か三年で1627年にオランダ人が造った要塞であるが、もうひとつの要塞が赤嵌楼(せっかんろう チーカンロウ)である。ここは1653年建てられたもので、当時はプロビンシャ城と呼ばれていた。
前者は対外貿易の拠点となり、後者はオランダ東インド会社の事務所や宿舎などとなっていた。ゼーランジャ城が「貿易センター」であるのに対して、プロビンシャ城は「行政センター」と言うことになる。プロビンシャ城を鄭成功が1661年に占領すると「承天府」と改名し、台湾行政の中心庁舎として使用される。しかし鄭氏政権が滅亡し清が統治するようになると使用されなくなり、現在はオランダ時代の土台やレンガ造りの石垣が残り、歴史を感じさせてくれる。
現在の建物は1879年清朝が建てた中国式のもので、特徴的なその姿は古都台南のシンボルであり、私が訪問した2013年の大晦日も、最高気温25度の日差しの中多くの観光客で賑わいを見せていた。