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  鄭成功と台湾 Ⅰ ゼーランジャ城

  
中華民国台南市                                                                                
     

 
         〈1624年オランダが建設したゼーランダ城は砂州に作られた貿易港兼砦であった、 2013 12 31〉

 

 
    (ゼーランダ城は台南の代表的な史跡となっている〉

  

 
  〈ここの主役はもちろん鄭成功 2013 12 31〉

 
 〈現在は安平古堡と名付けられ台南市安平区に位置する〉 

 
 
   〈大航海時代。侵略者オランダがやってきた〉

    
     〈鄭成功と戦ったオランダ総督コイエット〉

 
        〈鄭成功を苦しめたオランダ軍の大砲〉 

   
 
      〈ゼーランダ城は近代的な西洋式砦〉 


 
成功(ていせいこう)は、この国の英雄とされている。その理由は彼の足跡が、国民党政府のそれとよく似ているからに他ならない。国民党政権はかつての日本の支配を「奴隷的隷属」と位置づけ、更に大陸中国への「復活復権」を目指す中で、鄭成功の「反清復明」の精神と行動力を「国民党政権の進む道」に照らし合わせてきた事情がある。

 歴史上の鄭成功は、目標である「反清復明」実現することなく死去し、また台湾に滞在した時期も一年足らずと短かった。しかし台湾独自の政権を初めてうちたて更に台湾の開発発展の礎を築いたことにより、今日でも台湾人の「不屈精神の支柱・シンボル」として高い評価と地位を得ている。
 鄭成功のストーリーは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」に象徴されるようにすでに近世の時代から日本でも人気が高い。

 
1642年長崎県平戸で日本人女性田川マツを母として生まれたことにも、人気の一つとなっている。父親の鄭芝龍は中国人、周辺海域での密貿易と海賊行為を行ういわば「貿易商人および海賊倭寇」の立場にいた。 

中国人の鄭芝龍が日本の平戸にも居を構えることができたのは、平戸藩主宋陽隆信の経済政策に理由がある。貿易による利益は、当時としては莫大であった。時代とともにオランダとの貿易が下火になる中、平戸藩は鄭芝龍による貿易の利益に藩運をかけたのである。

時代は徳川政権の鎖国体制が完成する直前で、鎖国体制が完成していく過程で父鄭芝龍の日本寄港もできなくなっていく。幼年時代を平戸で過ごした鄭成功もそれに伴い、七歳の時に当時父が拠点とした福建へと移動していく。幼年期を日本で過ごした鄭成功は日本語を話せるわけで、これも日本人の親近感となっている。後に田川マツも福建に移動していく。これ以後鎖国政策もあり、鄭成功母マツともに日本を再訪することはなかった。 
 鄭芝龍は一族で福建省厦門などを根拠に密貿易を行い、政府の明軍や商売敵との抗争のために私兵を擁していた。こうして経済力と軍事力を備えた巨大な「軍閥」として成長していく。
 鄭成功は父鄭芝龍の腹心となりがらも、豪腕な父とは異なり学問の分野でその才能を開花させていく。難関の官吏登用試験「科挙」を次々と突破し父親にはない学識を備え、周囲からの尊敬も集めていく。
 1644年、李自成が北京を陥落させ、明の最後の皇帝崇禎帝が自害すると、都を逃れた明帝国の旧臣たちは各地に亡命政権を立てた。
 その中で鄭芝龍らは唐王朱律鍵(隆武帝)を擁立した。この隆武帝は鄭成功のことを気に入り「私に娘がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代りに国姓の朱を賜ろう」と言った。これ以後鄭成功は「国姓を賜った大身という意味で「国姓爺」(爺は旦那の意味)と呼ばれるようになる。

 
しかしその隆武帝も清の軍勢に敗れ処刑されてしまった。鄭芝龍は清への抵抗運動に失望し、自ら清に投降してしまい、後に処刑されてしまう。
 父と決別した鄭成功は、その後清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続けていく。
 その真の理由がどこにあるのかは現代も謎と考えていいだろうが、学問好きな生真面目な性格と父が捕らわれ
(後に処刑)更に母マツの戦死(陵辱され)などを経験する過程で強くなっていったのであろう。

  抵抗運動のその後

その後、鄭成功は広西にいた永暦帝清と戦っていたのでこれを明の正統として、抵抗運動を続けていく。1650年、廈門を急襲した鄭成功は、従兄の鄭彩、鄭聯を殺害してその軍隊を奪い鄭一族の巨大な武力を完全に掌握した。一族を裏切ってまでの強い決意、鄭成功の内面も変化していく。鄭成功は日本に援軍や援助物資の懇願を繰り返すが、鎖国体制の徳川政権はこれを黙殺する。

そして1658年鄭成功は17万大軍で「北伐軍」を編成し、旧都南京を目指した。軍規は極めて厳しく、一般民への殺人や強姦ももちろん家畜を殺しただけでも死刑とされた。更に上官にも連座するとし部下たちは震え上がった。
 しかし遠征そのものはとん挫してしまう。途中杭州湾で暴風雨に遭遇し艦艇300隻のうちの100隻が沈没し、数千名の兵士と鄭成功は実子までも失っていく。翌年鄭成功は再度遠征を行うが゛、油断もあり南京で進軍の奇襲に大敗してしまった。

鄭成功の台湾征服(166162

 1660年チャンスと見た清は鄭成功討伐軍を送る。しかし鄭成功に惨敗を喫してしまう。こうして武力制圧は無理と悟った清は、1661年沿岸の住民を内陸部に強制移住させ鄭氏の補給を絶つことにした。経済的に追い詰められた鄭成功は、新天地を求め台湾に目を付けた。

 台湾では1624年に上陸したオランダ人が、安平(現在の台南)にゼーランジャ城とプロビンシャ城の二つの砦を築きその支配の拠点としていた。オランダ人は先住民の高山族や中国からの移民を労働力として酷使した上に重税を課したため、現地では抵抗や蜂起があいついでいた。彼らも鄭成功の到来に期待を寄せていたわけである。
 鄭成功は台湾に永暦帝を迎えて第2次明帝国を建てる構想を立てた。こうして1661年鄭成功は兵2万と200隻の艦隊を率いて台南安平港に迫った。安平港への水路は、水深が浅いため大型船は入れないとされていたが、鄭成功は一年に二度しかない大潮を利用し満潮時に全艦隊を湾内に突入させる。不意を突かれたオランダ軍が手を拱いている間に上陸を完了した。
 
 オランダ総督フレデリク・コイエットも反撃し、わずか数隻の艦艇で応戦した。オランダの巨砲が鄭成功の2隻を撃沈したものの、主力船ヘクト号が撃沈された。また通信船が援軍を要請するためにバタビアへ向かった。一方、陸上でもオランダ軍240名がほぼ壊滅する。

 鄭成功は、オランダ軍の籠城するゼーランジャ城ともう一つのプロビンシャ城を個別に攻めることにした。守兵の数が少ないプロビンシャ城はまもなく陥落したが、ゼーランジャ城は籠城の姿勢を崩さなかった。

鄭成功は長期包囲戦にはいった。大陸からの物資の補給は困難であったが、屯田制度を設けて自分たちで食糧生産することにした。籠城するオランダ軍も食料の不足や病気などに苦しめられながらも、バタビアからの救援を信じた。
 数ヶ月後ようやくオランダ増援艦隊が到着したものの、鄭成功に迎撃されさらに暴風雨にも遭遇したためにバタビアに退却してしまう。

その後ゼーランジャ城の外壁を破壊した鄭成功は、一斉砲撃を開始する。ゼーランジャ城は炎に包まれ、希望を断たれたコイエット総督は、ついに開城を決断して降伏した。
 9ヶ月間の籠城の結果、オランダ軍1600名の半数が戦死し、生き残った兵たちもバタビアに去った。鄭成功は白旗を掲げたオランダ人たちには危害を加えず、そのままバタビアに返したという。

しかし永暦帝は昆明で殺害されたため、明王朝復興の望みは潰えてしまう。鄭成功はその後、ゼーランジャ城を安平鎮、プロビンシャ城を承天府と改めて台湾を拠点にしていくが、1662年に病死していく。死因はマラリアとされている。


       
          
                               〈1661年 鄭成功に降伏するオランダ軍。)                             


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