HOME〉Taiwan Decem〉2013
霧 社 再 訪 2013 12
中華民国南投県仁愛郷
〈民族の誇りが圧倒的な迫力で表現されている霧社事件のレリーフ 2013 12 29〉
(モーナルータオと再会」〉
〈同じ方向からの眺め。村は大きくなっている〉
〈事件現場にできた案内板〉
〈現場の狭さに改めて驚かされる〉
今回「霧社」を再訪したのは、予定外であった。今回の台湾行のメインを、当初合歓山(3400㍍)への日帰り登山としていたが、札幌発台北行きの機内で現地の新聞を開き「もしや」の気持ちが芽生えた。
台湾に寒気団が立て続けに入り込み、2日前の12月26日の夜から各地に雪が降ったことを紙面は伝えていた。もちろん南国台湾の平地に雪が降ることはあり得ないが、標高1400㍍以上の地域で4センチから8センチの積雪があったという。たいした雪ではないと感じるが、「建国以来の・・・」の見出しが躍り、平地でも最低気温が10度以下となって、大騒ぎになっていた。なるほど大陸からの寒気の影響で、ここ一か月は北部と東部は連日曇天と雨が続いていた。台北では「12月に28日間の降水日を観測」となって記録を更新したらしい。
私は、安全策をとった。合歓山へは悪天候の続く予定していた東側(太魯閣渓谷)からのアクセスをさけ、好天の続く西側からのルートを選んだ。この西側ルートの起点となるのが偶然にもこの「霧社」の村である。
台湾入りした翌朝、雨の降り続く桃園(台北国際空港の最寄り町)の駅から台鉄「自強号」に乗り台中に移動すると、なるほど薄日が差してきた。 台中駅前から埔里行きのバスに1時間、そこから霧社方面のバスに乗り換え50分である。このあたりも2009年の台風8号で、台湾史上最大の被害を記録している。この時私はパラオを訪問するために台北に立ち寄ったが、6時間遅れの航空機が着陸できただけでも幸運であった。
6年ぶりの霧社は、日曜日ということもあり賑わっていた。今回は時間があり村の隅々まで見ることができるし、なんと村のホテルで宿泊もできる。(前回は二時間足らずの訪問だった)
車のおびただしい通行量を見て、「合歓山行き」を楽観視していたが油断があった。道路上の電子掲示板に「路面氷結 積雪 通行規制」の文字が繰り返されている。慌ててホテルに戻りタクシー会社に問い合わせてみると、「途中警察が交通規制をして車を返しているので無理」という回答。1日一本ある梨山行きの路線バスも、運休だという。なるほど冬道に対する備えという物がなく、少々の雪と氷にも完全にお手上げなのである。「なんのためにここまで・・・・・・」となった。
落胆した気持ちも切り替え村を廻る。「霧社事件」の史跡を巡るための歩道や案内板の整備が、6年前と比べるとすすんでいた。事件現場の現在の電力会社の敷地にも、案内板ができていた。事件現場をはっきりと特定していることになり、改めて歴史の深みを感じた。
案内板に従い、前回訪問できなかった犠牲になった「日本人墓地」を訪問した。残念ながら墓地そのものは殆ど残っていなかったが、南側から村の全貌をみわたせる丘に上がった。当時の写真と見比べると、村が大きくなっていることが分かる。標高1100㍍の村の中に大きな農業高校や、義務制の学校ができている。
冷え込んだ翌朝、私は再び村を歩いた。霧社事件現場を歩き、その背後にある切り込んだ谷底を覗き考えた。
現在台湾人の多くが、自分たち「台湾人」としてのアィディンテイティを求めているという。複雑な歴史に翻弄されてきた人々。
「私たちは台湾人だ。中国人ではない」という人びとの存在。台湾に古くから暮らす山岳先住民(この国ではユエンツーミン原住民と総称される)と、17世紀から大陸中国から移民してきた平地人の問題。
そして日清戦争後50年に及ぶ日本の支配と、その後の蒋介石率いる国民党政府による数百万人に上る新たな移民(外省人)の存在と支配。「自分たちはいったい何者なのか」の思いを強める人々。そんなことを考えながら、私は狭い霧社の村歩いた。
この村にある農業高校に通う高校生たちが、朝食屋で朝食をとっている。2つあるコンビニエンスストアー(セブンイレブンとファミリーマート)も、高校生たちで一杯である。時間はまだ午前7時を回ったばかりだ。
「霧社事件とコンビニでの朝食」。なんとも不思議な取り合わせである。