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    白色恐怖政治と緑島 Ⅰ


  
中華民国                                                                                
     

    
        〈「緑州山荘」の入り口と全景。施設の手前は海、後ろ側の険しい断崖が特徴的だ。 2014 1 5〉

 

 
  (左に将軍岩。右に「緑州山荘」の文字が入った鬼門関」〉

 

 
        
  〈雑居房をのぞき窓から覗く〉〉 

 
      〈雑居房のオープントイレが印象的〉

 
 
 
        〈当時の拷問などの展示〉

 
         〈面会室。受話器が並ぶ〉   

地元台湾人同士の会話に耳を傾けていると、時々日本語が混じっていることに気が付く。「スミマセン」「モウイッカイ」「オイシイ」「カアチャン」などである。
 年配の方はもちろん、若者にもこの傾向はみられた。どうやら現在も好んで日本語を使っているらしい。同じ日本の植民地支配を受けた朝鮮半島とは、日本語に対する感情が異なっている。

1945年日本が台湾から撤退すると同時に大陸の国民党政府が多くの大陸中国人(外省人)を伴い、台湾の新たな支配者となった。
 国民党政権は日本語や台湾の言語
(閩南語やホーロー語等)の使用を制限し、代わりに北京語(中国語)を国語として強制した。
 さらに国民党軍の兵士たちは台湾の人々
(本省人)には、横柄に振る舞った。金銭を払わない買い物、女性への乱暴などである。「兵隊さん」として慣れ親しんでいた軍規の厳しい(必ずしもそうではないが)日本兵とは正反対であった。
 台湾の人々の気持ちは、国民党政府や北京語から離れ、日本を懐古する空気が生まれていく。そんな事情がこの国にはある。

 緑島(りょくとう)へ

南国台湾の南東部の沖約33キロに、「緑島(りょくとう)」と呼ぶ離島がある。南東部の中心都市台東から300人乗りのフェリーに乗り、この島に渡ったのは201414日のことである。
 

 近年観光地に生まれ変わっている「緑島」であるが、冬期間はオフシーズンとなり船便は一日一本だけになりしかも出航時間も連日変化するようで、ここでも私たちは翻弄され丸一日以上台東で待ちぼうけを食った。航空便もあるが、20人乗りの小型機(一日三便)ではキャンセル待ちするし
か手立てがなかった。
ジェットフォイル式の高速船でわずか50分足らずであるが、完全な外海であることとまともに黒潮の本流が北上するコースを横断することで、フェリーは流れに翻弄され揺れに揺れた。

 周囲20㌔足らずのこの島は、現在「グリーンアイランド」と呼び、明るいイメージづくりの中で観光客を誘致している。しかしその陰に、暗い歴史が秘められていた。
「離島=島流し」の図式通りに、日本による統治が開始されると重犯罪人を収監する監獄が設けられ、戦後も一般市民の渡航は制限された。元来は「火焼島」と称されていたが、1945年に「緑島」と改称されている。

 新たな支配者「国民党政権」は、228事件に象徴されるように台湾人の反政府的・共産主義的な運動を徹底的に弾圧した。これは1987年まで続き、これを「白色テロ」時代と呼ぶ。数千人(4230名と言う数字が展示されていた>の台湾人が犠牲となった。

 緑島では私たちは民宿に宿を取った。船酔いした私たちにはホテル選びをするその力がなく、「泊まれる所ならどこでも」となった。そこで唯一の交通手段の電動自転車を半ば強制的(400)に借用させられ、私はそれに乗って「白色テロ」の「負の遺産」へと出かけた。

 島の北側に「負の遺産」は集中している。島の南側はこの時期強烈な季節風にさらされるが、島の北側はその風の影響を受けずに済むことだけが唯一の気休めである。
 高い塀に囲まれた「緑洲山荘」と呼ぶ監獄がその中心である。正式名は「国防部緑島感訓監獄」(
1972-1987)である。

 付近は海岸が続き、ごつごつとした岩が印象的である。入口前にある奇妙な岩は、手に剣を握った古代中国の将軍に見えることから「将軍岩」と呼ばれ、島の守り神とされている。

しかし、この岩付近の港がかつての流刑者の上陸港で、政治犯とされた人々は上陸後この岩の門を通ったという。この岩門を通るということは地獄への道を意味し、再びここを抜けて生きて帰れるかどうかわからなかったので「鬼門関」と呼ばれたという。 

緑洲山荘

名前は山荘でも、政治犯監獄である「緑洲山荘」の中に入る。近年この一帯は「侵害抑圧された人権の歴史」を記念するメモリアルパークとされ整備が進み、この国の民主化を象徴する場所とされている。入場料もなく見学が推奨されている。

内部は雑居房、独居房、懲罰房に分かれ、監獄として使用されていた当時のままの姿を見ることができる。まずは雑居房を見学したが、部屋の片隅にあるオープンなトイレが印象的だ。プライベートな空間は全くない。更に印象的だったのは、面会室である。家族などとの「直接の対面」は許されず、相手の顔は見えるものの会話は「受話器」を通じて行われていた。

  
  

                           
                〈白色テロの犠牲者)                                〈そしてその数」 

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