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爆風の島 サイパン 

                  シリーズ十勝の戦後60年「玉砕の島サイパン」


 
 北マリアナ諸島                                      2005 2 北海道新聞十勝版にて連載         
      
   
                  〈上空からサイパン島南端アギガン岬を眺める。2005 1〉   
 
 


  
              (森辰雄さん〉〉  
 
     
            〈当時の森辰雄さん〉

      〈森さんの倒れた近くのアギガン岬のトーチカから
                      テニアン島を眺める〉


 
         〈上空から見たアギガン岬〉


      



 
   


  

 「突然、爆風が襲ったんです。自分の下半身が、なくなったような感覚でした。同じ中隊の戦友が、私を民家の床下に運び込んで、『いいか必ず迎えに来るから、ここで待ってろよ』と言ったんです。しかし、結局は誰も迎えに来ませんでした。私のいた中隊は約100名で、生きて日本に戻ったのは私だけかと思います」そう語るのは、北海道浦幌町在住の森辰雄さん(83)である。 
 
 森さんは、この時全身に砲弾の破片を受けた。昭和19年6月13日から2日間に渡って、サイパン島を襲ったアメリカ軍の上陸作戦を前にした猛烈な艦砲射撃の破片である。

「その後民家の床下で意識が朦朧としたまま、一週間ほど倒れていたと思います。サイパンは、日本の防波堤といわれていたんですけどね、それはお粗末な守りでしたよ。椰子の木にペンキを塗って、高射砲がたくさんあるように見せかけたりしていたんです」
 
 アメリカ軍は島の西側に艦艇を並べ、一斉に砲門を開いた。島全体に、砲弾が炸裂した。この艦砲射撃によって、森さんは瀕死の重傷を負ったわけである。6月14日のことであった。

「負傷したのは昼間でしたね。
戦闘中ですから、時間など分かりません」
食糧も水も、口に出来なかった。
「水が欲しくて、はって捜したんです。
甕を見つけました。動く左手を使って、飲みましたよ。石油臭かったですね。たぶん、重油か何かの入れ物だったんですね。中には、ボウフラがわいて居ましたよ。傷口には蛆が湧いていて、左手で払い落としました。そのうち何日か経って、気がつくと戦車の姿が見えました」
 勿論、アメリカ軍のものであった。
「それから、床上に人の声が聞こえたんです。英語です。私の横たわっている真上が、米軍の宿舎になったんですよ」

 なんという事だろうか。アメリカ軍は、6月15日の夜明けと共に上陸を開始した。

「敵に見つかったら、殺されると思っていました。じっとしていたんですが、結局見つかったんですよ。」
 森さんの潜んでいた床下の民家は、南洋興発の社宅であった。その床下に人の気配を感じたアメリカ兵たちは、
恐怖感にかられた。
 自分のベッドの下に、命知らずの特攻日本兵が潜んでいるかも知れないと思ったからである。アメリカ兵は、こわごわと戦車を繰り出した。
戦車が建物ごと引き倒し、森さんは南国の太陽の光を浴びた。

 私がサイパン島を訪問したのは、2005年1月5日のことである。
空港からのタクシーの運転手は、「今回のスマトラ島沖地震の被害に、日本政府は5億ドルの援助をすることを決めたようです。 すごい金額ですね。日本は立派です」と話す。この運転手は、インドのカルカッタから来たという。先住民チャモロ人の数は少なく、現在は外国からの出稼ぎ的な移民が住民の大半を占める。
しかし60年前のこの島では、島民の大部分を占めていたのは日本人であった。

「アメリカ兵に、担架に乗せられたんです。その担架が、南国の太陽にすっかり熱せられていて、ものすごく熱くなっていたんです。私は火あぶりにあったと、本気で思ったんですよ。すると、スミスという通訳が現れて、これから病院に連れて行くと言うのです」
 米軍野戦病院の看護は、森さんを驚かせた。
「至れりつくせりでした。食事もスプーンで、一口ずつ口に運んでくれます。
アズマという日系の通訳が現れて、何か不自由なことはありませんかといってくれました。フルーツの缶詰などを、食べたのを覚えています。
病院に、日本兵はいませんでした。いつか殺されると思っていたので、案外気楽でした」森辰雄さん。

 驚いたことに、病院のテントではアメリカ兵と一緒の暮らしだったという。
その後の戦局も分からず森さんは、日本人ばかりの収容所に移動されていく。
「次は、民間人ばかりの収容所でした。私は、森田辰郎という民間人になりすましていましたが、周りの民間人に兵隊であることを密告されてしまいました」
 
 そして、兵士専用の収容所を経て昭和19年12月、ハワイに身柄を移されていく。

 その直前、サイパン島でB29を目撃している。アメリカ軍のサイパン占領のきっかけは、『空の要塞B29』の完成にあった。この爆撃機は、4トンの爆弾を積んで約5400キロを飛行することが出来る。つまり、サイパン島を基地として日本本土を空襲し帰還することが可能である。日本との戦争に決着をつけるためにもアメリカ軍は、サイパン島をはじめとする島々が絶対に必要であった。

 その後森さんは、アメリカ本国の捕虜収容所を転々とし昭和21年12月に横浜港に降り立った。
「嬉しいというより、複雑な心境での帰国でしたね。横浜から、実家に電報を打ったんです。私は、昭和19年7月18日に戦死したことになっていて、家族もいたずら電報と思ったようですよ」

森さんは、大正10年に浦幌町に生まれている。昭和18年に、旭川第4部隊に入隊し満州に渡り、歩兵第89連隊第3大隊に配属された。                                    昭和16年末の真珠湾攻撃によって開始された太平洋戦争は、当初順調に進んでいた。しかし翌年6月のミッドウエー海戦での敗北、昭和18年2月のガダルカナル島からの撤退で、日本軍の進撃は停止する。本格的なアメリカ軍の反攻が始まると、国力の差は歴然としていた。
昭和18年9月、日本は「絶対国防圏」を決定した。この時、絶対に確保すべき地域をこのサイパン島としたのである。

 そのため中国大陸・日本国内にいた部隊が、サイパンをはじめマリアナ諸島へ派遣されることとなった。満州にいた森さんの部隊もその中に含まれていた。歩兵第89連隊第3大隊618名である。
「本当に、どこに行くのか分かりませんでしたね。真っ暗な貨車に閉じ込められたままで、横になって眠ることは出来ません。座ったまま眠るんです」

 昭和19年3月に、朝鮮の釜山に到着した。
「そこで、但馬丸という輸送船に乗せられました。そして、夏服に着替えさせられました。それで、南方に行く事が分かったんです」
 船倉は、弾薬と物資でいっぱいであった。
「立って歩く事が、出来ないんですよ。這って歩いて、弾薬の上に寝たんです。潜水艦の攻撃が、一番怖かったですねえ」
 
 横浜で船団が作られ、輸送船14隻の船団は途中2隻ほどが撃沈され、3月19日サイパン島のガラパンに入港した。
その後も多くの部隊がサイパンに向かったが、多くの輸送船が途中で撃沈され、多くの兵士たちは船とともに海没していく。

 満州にいた第29師団の主力部隊も、アメリカ潜水艦により撃沈され約2300海没。名古屋を中心とした第43師団も、6月5日同様に輸送船7隻のうち6隻が撃沈されるという、惨憺たる有様で2240名が海没している。
「確かに、続々と陸軍部隊が上がってきましたが、裸の兵隊が多く居ましたね」森さん。

 生き長らえた兵士の多くも、武器も衣服もないという有様であった。こうして、合計43、000名の守備隊と2万人の民間人が、決して広くはないサイパン島にひしめくことになった。そこにアメリカ軍兵士7万人が、圧倒的な物量を背景に上陸を開始したのは、昭和19年6月15日の早朝であった。


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