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      ミンダナオ島では                                             
     
                                         
 
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            〈土屋さん〉

   
  

  
          (土屋さんが持ち帰った日記〉    

 
     


「私たちの大隊は
1800名いたのですか、生きて帰ったのは88名です。私の中隊230名の中では3名だけです、生きて帰ってきたのは」と話はじめたのは、北海道帯広市の土屋金司さんである。

昭和2038日、この日を彼は一生忘れる事ができない。この日ミンダナオ島ザンボアンガに、米軍が上陸してきた。2日前に猛烈な爆撃を受け、上陸前日には四・五隻の米艦が姿を現した。
「これであれば、せいぜい1500名程度の敵兵力」と、油断していたという。
 翌日、数え切れないほどの米艦艇が海面を埋め尽くし、艦砲射撃と航空機の爆撃に、日本兵は防空壕から一歩も外に出られなくなった。9日米軍の大軍が戦車を先頭に、あっという間に飛行場を占領した。
「私は、飛行機からおろした機関銃を撃っていました。この指を見てください」
 土屋金司の左手親指の先端部は、かけていた。そして、右目の横にも傷跡が残っている。左手の親指の先が銃弾で吹き飛ばされ、右腕をかすめて右目の横を削り取ったことになる。一面血の海となり、意識が遠くなったという。彼は周りの兵隊たちに担がれ、手当てを受けて一命を取りとめた。
「当時ミンダンオ島には、日本兵3万人がいたんですよ。でもね、大砲が5門、戦車は3両しかなかったんですよ。われわれのいたザンボアンガの飛行場も、使える飛行機なんて一機もなかったんですよ」その後、守備隊は後方の陣地に逃げ込んだ。
「アメリカ軍は、我々の逃げ込んだ山に向かってサーチライトを照らすんですよ。それは明るいんです。昼間より明るいくらいです。立てこもるための陣地を、私達は山の中にあらかじめ準備していたんですよ」

飛行場から2キロ後方の陣地に、400名が立てこもった。そこへ米軍は昼夜を問わず、きっちり5分おきの砲撃を加えたという。
15人ほどの斬りこみ隊が次々と結成されて、夜間米軍に占領された飛行場に乱入したんです。私も一度参加し、ガソリンを撒いて火をつけましたよ。早く死んで靖国神社に行きたい国の役に立ちたいと、当時は本気で考えていたんです。死ぬことが名誉だと教育されていたので、疑問も持たなかったんです。しかし、結局はその陣地から脱出することになりました。嵐の夜を選んで、5分おきの砲撃の合間に10名ずつ脱出したんですよ」
 
 400
名のうち100名は、動けぬ負傷兵であった。動けぬものは、注射を打たれ処分された。

「脱出できたのは、200名くらいでした」その後、投降する昭和20928日までの半年間、彼はジャングルでの生活を強いられることになった。

食べ物の話は、衝撃的であった。
「カナチョロと呼ぶトカゲや蛇を、食べましたね。火を使うと米軍に発見されるので、生で食べたんですよ。トカゲには毒があって、毒にやられるものが大勢いました。便と一緒に、人間の腸が溶けて出てきてしまうんです。勿論生きてなんていられません。皮製の軍靴も食べました」
「煮て食べたんですか?」
「火は使えないので、水につけて軟らかくして食べたんです。本当に多くの兵隊が、餓死していきました。朝目が覚めると、死んでいる兵隊が多かったんです」

自決は、どうだったのだろうか?
「生きて故郷に帰りたいという気持が強かったんですね。自決はありませんでした。しかし、兵隊が兵隊を襲って食べたという話は聞きましたよ」 銃と飯盒・カッパは手放さなかったが、衣服は朽ち果て、
「裸足で裸になっていましたね。何時か神風が吹いて、日本軍が迎えにくると思っていたんですよ」

土屋金司は、大正11年北海道網走市に生まれたあと、両親と共に樺太東海岸に渡っている。
「家は、農業・漁業・林業なんでもやってましたね。でも主に農業です。本当は、学校の先生になりたかったんですけどね。三人兄弟だったんですけど、高等小学校を卒業した後家の手伝いをしていました」

時代はやがて、戦争一色になっていく。
「親たちは、陸軍を勧めました。陸軍は、二年間で帰ってこられると評判だったんです。自分もその気だったんですが、町役場に行くと希望者の少ない海軍を勧められたんです」
 こうして、海軍航空隊の整備兵に志願することとなった。樺太から海軍には結局120名が志願し、合格したのは20名であったという。その20名の内、生きて帰国できたのは土屋金司だけであった。
 その後、ミンダナオ島の山中をさまよう土屋金司たちの分隊は17名となった。四カ月がたち、塩分不足は極度の衰弱を招いていた。何時しか部隊は離散し、彼は仲の良かった若松兵曹・中田上等兵の3名で暮らすようになった。昭和206月ころのことである。
 3人は、現地人の襲撃を受けながらも海岸に出た。そして、海岸から1キロほどのところに小屋を建て暮らし始めた。

「椰子の油を作り、コプラ・ヤドカニ・海亀なんかを食べましたね」
 大きな海亀を捕らえた時は、その匂いを嗅いでオオトカゲやヤドカリも寄ってきたという。勿論、そのトカゲやヤドカリも食料となった。

同じ海岸一帯には、日本兵が36名暮らしていた。
「だからだんだん食べ物も減っていったんですが、食べ物より酷かったのは衣服ですよ。本当に何にもなくて、前だけを隠していただけです。殆ど素っ裸ですよ。髪の毛も髭も伸び放題だし、勿論裸足です」

火は固い木を擦り合わせて起こし、絶対に消えないように注意を払っていた。
「ある日、猿に小屋が荒らされて食料が奪われましたよ。今度は、私たちが待伏せしてその猿を銃で仕留めました」
 その猿の肉は、大切な食料となった。
終戦が近づくと、米軍は現地のフィリピン人に任せて数を減らしていく。米軍は、戦力を「沖縄」作戦に移動させていった。
 アメリカ兵に代わって、現地フィリピン人との戦いが熾烈に成っていった。八月一五日が過ぎ、
9月末ころ山田少佐という人が、船に乗って迎えにきました。おまえはスパイだろっ。と始めは追い返しました」

そして終戦のビラが、飛行機から撒かれた。
「写真つきのビラでしたね。食料も尽きてきたし、どうせ殺されるならアメリカが宣伝している食べ物を食べ、タバコを吸ってから死のうと考えるようになったんです」

全裸の36人は相談し、指定された日時に海岸に集合した。
「私たち36人のために、なんと12隻も船が着たんですよ。武器などは、穴を掘って埋めましたね。私たち一人一人に米兵が二人ずつつくんです。黒人の大男たちが、私たちを怖がっていました」

928日、彼らは、サンボアンガの捕虜収容所に送還された。その後レイテ島に移され、若松兵曹・中田上等兵は早々に帰国していったが、土屋金司は戦争犯罪容疑で帰国が延ばされた。
「何でも台湾に捕虜を虐待したツチヤという者がいたらしく、同じ名前の私に容疑がかかったのです。この疑いは晴れましたが、確かに私たちは住民に酷いことをしていたのです。私の部隊でも、バナナを売りにきた現地人をスパイだとして処刑したことがありました。上官が日本刀で首を切り落とし、私たち兵隊は度胸試しに銃剣でその現地人を突き刺すことをさせられたんです。
 捕虜収容所では、「首実験」もあったんです。私たち捕虜が並ばされ、そこに各村の酋長がきます。酋長が指をさすと、その兵隊は連れて行かれ処刑されたんです」
 一割ほどの将兵が、こうして処刑されたという。フィリピン住民の、日本軍への憎しみは激しかった。ミンダナオ島、ここにも本当のフィリピン戦の姿があった。


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