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   終結「ルソン島の戦い」                                             
                       ルソン島の戦いⅢ
 
                       
 
フィリピン Republic of the Philippines                         
 
    
     
           〈山口昇さん〉

 
            (マニラ東方の山岳地帯〉    

 
 
       (山口さんが武装解除された地点」〉   

     
  
        

破局的な様相が強まってきた7月末、ひとりの戦友と一人の兵長が上官に自決を強要され劇薬で死亡した。その二日前、タール状の便を垂れ流したまま横たわるその戦友は、昇を呼び寄せていた。荷物から婚約者の写真と日本の紙幣を取り出し、昇に預けた。そして、手りゅう弾を取り出した。昇が
「許せ!俺にも明日はない。しかし死に急ぐな!一日でも長く生きぬくんだ」と必死に静止した僅か2日後の出来事であった。
 それから半月後の終戦は、米軍機からのビラで知った。突然砲撃が止み信憑性は高かったが、簡単には受け入れることは出来なかった。

2日後無線機のある司令部で終戦を確認し、昇は奈落の底に突き落とされた虚脱感に呆然とした。そこで、彼は司令部の兵が囁いているのを聞いた。
「外地の日本軍は武装解除を受けて、日本に送還されることになるそうだ」と。
「あと一月終戦が遅かったら、私たちも大変なことになっていたでしょうね。部隊は多分分散して、私たちもジャパンゲリラになっていたでしょうかね」。

91日部隊は移動し、インファンタ地区で武装解除を受けた。マニラ東方の山岳地帯に展開した海軍兵士は、17000名といわれている。この時まで生き延びここで武装解除を受けたものは、わずか1550名であった。この地域の遺骨収拾は、殆ど手をつけられていない。

「現地の人が言っていましたよ、大雨が降った後は今でも髑髏(どくろ)が上流から流れてくる。こうも言っていました。私たちは、あなた方日本人がしたことを許すことはできる。しかし、忘れることはできないと」
 


 コレヒドール島に隔離された山口昇ら武蔵乗組員は、下着も失い全裸の者も多く、一人残らず裸足であった。そして、この島で惨めな生活を強いられていく。島の山頂にあるかつてのアメリカ極東軍総司令部の「トップサイド兵舎」が、彼等の収容先であった。

 そこは、すでに廃墟であった。日本軍の猛爆撃をうけた、かつての要塞だったのである。雨露を凌ぐこともやっとの代物であった。食料も不足し、生き残りたちの隔離生活が続けられた。

「武蔵はただの特攻ですよ。塗装をしたのも大和を守るためです。途中ただの一機の日本機の姿も、見なかったんです。精神論だけが強調され、死ぬ事が美徳にされていたんですよ」山口昇。

武蔵の戦死者は、乗員2399名のうち沈没と運命を共にした艦長猪口大佐を含め1039名である。駆逐艦でコレヒドール島に上陸した生存者のうち、いつの間にか高級士官は飛行機で日本に帰って行った。
「サントス丸」に乗り、嬉嬉として日本に向かった兵たちもいた。しかし、台湾とのバシー海峡で潜水艦攻撃を受け420名のうち300名が命を失った。助け出された120名は、瀬戸内海の小島に秘密保持のために再び軟禁された。

山口昇らコレヒドール島に残された620は、フィリピン決戦に投入される事になった。装備も食料もない、にわか俄か仕立ての陸戦隊にされていった。
 再び山口昇は無謀な作戦に、駆り出されていく。フィリピン戦での日本軍の戦死者は50万人という驚くべき数値であるが、昇ら697名の武蔵生存者のうち、終戦を迎える事ができたのは僅か56名であった。

このフィリピンで日本軍は、米軍とはもちろん地元民とも闘わなければならなかった。昇たちの使命は、「肉弾」となって米軍の日本上陸を一日でも遅らせるという、時間稼ぎでしかなかった。
 この地元民を巻き込んだ「時間稼ぎ」は、あまりにも悲惨であった。マニラに送り込まれた昇たちには、治安の悪化と空襲が待っていた。祖国の解放が近いと知った反日勢力の活動が、活発になってきていた。

昭和20年の年が明け、米軍のルソン島上陸も時間の問題となった。「多発性関節炎」のため入院していた昇は、帰国することになった看護婦の一人に、私信を託した。四枚の便箋に、故郷の父・母・兄・妹あてのものも書いた。検閲を通さないもので、別の用紙に「北海道河西郡大正村大正区 山口九市」と書いた。故郷の父の名である。

「あなたが、無事に日本に帰ってくれる事を祈っている。もし無事に日本に帰れたならこの封筒の表に、この宛名を書いて投函してほしい。北海道の父母たちに、先立つ不幸を詫びた手紙なんだ。決して、無理はしないで欲しい。危ないと思ったら焼くか捨てて欲しい。すまないが頼む!」「もし生きて帰れたら、必ず言われた通りに届けます!命を大事にして!」彼女は、深く頷いた。そして、小さな人形を彼の手に渡した。彼女は、涙を抑えて病舎の階段を降りていった。
 そして後日その手紙は、家族のもとにたどり着いた。1月、米軍はルソン島リンガエン湾に上陸を開始した。
 130日、昇たちの部隊はマニラ東の山岳地帯モンタルバンに移動した。そこからは、マニラが燃えているのが見えた。「マニラが燃えている。マニラが陥落している」

「一〇三病仮設病舎」というのが昇の配属施設であった。ここで、防空壕を作る作業がさっそく始まった。
「病院の様子はどうだった? 俺たちが出る時には、まだ重症患者がかなりいたはずだが?」
「前日の夜に、薬を配ったんだ。分かっていたのか、大方の患者は黙って飲んでくれたよ。飲まないものもいたんで、仕方がないから注射で片付けたよ」
「まるで、鬼じゃないか」
「命令だから、仕方がないじゃないか」こんな会話を、昇は何の感傷もなく聞き流していたという。
「日本人が、足手まといになった同じ日本人を殺す」という事が行われていた。やがてこのような情景は、日常茶飯事として昇の周辺に展開されていくことになる。

   ルソン島山岳地帯へ

モンタルバンの仮設病舎も直ぐに空爆を受けて壊滅し、通称「伊吹地区」と呼ぶモルタルバン川に沿った山中に分け入ることになった。
 昭和2032日のことであるが、この移動の時にも負傷者は「注射」で処分された。その後昇たちの第一〇三海軍病院部隊は、ルソン島の山岳地帯に深く後退していくことになる。

米軍の空襲と侵攻は激しさを増し、伊吹地区からルソン島を横断し東海岸のインファンタ地区に移動することになった。80名の部隊は、背負えるだけの食料を背負い密林の中を進んだ。雨季の川は激流となり、押し流されそれっきりになった老兵もいた。

昇の部隊には、201月病院船で送られてきた35歳から40歳の老兵が数多く含まれていた。会社社長・小学校長・大学の助教授など、日本では活躍していた働き盛りの人々である。彼らはなんの訓練も受けず、いきなり最前線のルソン島に送られてきた。死ぬためだけに。やがて彼等を中心に、「もう歩けない」という兵士が、ではじめた。

空腹と衰弱で動けなくなると、待っているのは孤独な死だけである。手榴弾で自決する兵士も、現れてきた。更に湿気の多い密林の中で兵士を待っていたのは、「山蛭(やまひる)」である。木の枝から、小雨のように降り兵士の血を吸った。昇たちの貴重な血液を、蛭は腹いっぱい吸い取っていった。
 やがて小道の脇に、蝿の大群が目立つようになってきた。腐乱した死体が続き、蝿と蛆(うじ)の大群が、「ザザッー」と音を立てて群がっていた。食い尽くされる遺体は僅か二日ほどで白骨になっていくのを、昇は明日のわが身に置き換えて眺め、ただただ前へ前へと歩いていった。

遺体の兵士たちひとりひとりに親がおり、妻があり、子がある。密林を抜け草原を横切っていると、日本人の集団と出くわした。老人婦女子そして幼子、臨月の近い婦人も混じっていた。軍隊と一緒に行動することは出来ない。彼等は彼等だけで、進まねばならなかった。

悲劇は続いた。ひとりの真面目な通信兵がいた。彼は、蝸牛(かたつむり)やメダカなど口に入るものは何でも命を繋ぐために食べていた。そんな彼が、ある朝突然夢遊病者のように起き上がり、数歩歩いたかと思うと、口から大きな回虫を吐き出し、倒れ間もなく生き絶えていた。

やがて西部と東部の分水嶺の草原にでた。「高千穂高原」という草原である。ここから先は、レナチン川をくだった。川海老ややわらかい草を米と一緒に雑炊にして、腹を満たした。久しぶりの満腹感に、兵士たちは歓声を上げた。東海岸は確実に近づいてきたが、野宿には蚊や蟻の攻撃も激しくなる。

「ジャパンゲリラ」という言葉を、聞き始めた。軍の統率から離れ、食料などを求めて住民の村や日本軍まで襲撃する飢狼の群れのことである。路傍に倒れた兵士の所持品も、ことごとくむしり取っている。浅ましい弱肉強食の世界が、各地に展開されていた。

やがて、「桜井」と名づけられた平坦な場所に宿営することになった。414日ここで昇たちは、思いもかけない宣告を受けることになる。「第一〇三海軍病院部隊は、この地において解散する」と言うものであった。
 昇は幸運にも、「海軍部隊司令部付病舎」の、18名の中に組み込まれた。しかしこの解散は、減少する食料を節約するために、つまり幹部士官が残りの食料を独占するための措置であった。ここで、多くの兵たちは捨てられたのである。

こうして山口昇たちは、東海岸のインファンタを目前に解散し、再び18名の小集団となって元来た道を引き返し始めた。一行は、アゴス川からカナン川上流を遡り陣地を作ることとなった。
 川の合流点からカナン川を3キロほど遡ったところに宿舎をつくり、生き延びることとなった。昇たちは、ただただ食料の調達に動き回った。

何故、一行は元来た道を戻ったのだろうか?表面的には、守備する担当地域の割り当てがなされた形を取っているが、食料調達地域を巡って既に日本軍内での「縄張り」が決められていたのである。
 インファンタ地区は既に、縄張りの割り当てが終わり、後からたどり着いた昇たちの部隊は立ち入る事さえ許可されなかったのであった。

昇の健康状態も、少しずつ悪化していった。まずは、ビタミン不足から来る「鳥目」である。靴も壊れ裸足で生活するようになっていたが、夜はよく目が見えなくなり、躓いては裸足の足を痛めるようになってしまった。そして、昇は「デング熱」に冒された。高熱が続き、食欲も落ちてきた。昇の分の食料を他の兵士が奪い合って食べている光景を、昇は朦朧とした意識の中で眺めていた。

515日、このルソン島東岸インファンタにも米軍が上陸し、昇たちのいる山間部にも米軍が姿を見せ始めた。米軍はジャングルを進むと、飛行機からパラシュートで物資を補給し、確実に日本軍を追い詰めていった。
 盗賊団と化した「ジャパンゲリラ」の活動も、活発化している。彼等が襲撃するのは、武器を持っている兵、食糧を持っている兵、太っている兵という。鬼畜と化した彼らが、同じ日本兵を襲う地獄絵図がここにもあった。

カナン川畔に、連日のように幽霊のような日本兵士が姿を見せ始めていた。他の「縄張り」からはじき出された兵たちであった。太った野犬も目立ち始めた。野犬は兵士の肉を食べて増えつづけるが、その野犬を兵士たちが奪い合い骨までしゃぶり付いた。蛇やトカゲにも兵士たちは、群がった。
「バナナなどの果実があるのは、平地だけなんです。山の中は雑木林ばかりですよ。塩も困りましたよ、唐辛子や生姜で代用していましたね。私も痩せてしまってね、腰の周りを両手の親指とひとさし指で一回りできたんですよ」


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