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    崩壊「ルソン北部戦線」                                             
                          ルソン島の戦いⅡ
 
                       
 
フィリピン Republic of the Philippines                         
 
     
          〈佐野清治さん〉

         
              (佐野ミツさん〉    

 
 
       (上空からのルソン島最北端」〉   

     
   
        

               (;熊谷哲一さん〉  
 

 本土決戦の、単なる「時間稼ぎ」であったルソン島決戦。日本の第14方面軍は、ルソン島の兵力を三分していた。そのひとつ「尚武集団」の中で戦い戦死した一人に佐野清冶(せいじ)がいる。長男で遺族に当たるのが、北海道帯広市の佐野清勝さんである。この家族にも、悲しい事実があった。当時北海道帯広市の農協に勤務していた佐野清冶が出征したのは、昭和172月のことである。長男佐野清勝さんには、当時満23歳であった父の記憶がない。清勝さんが生まれてわずか一週間後に、父が出征したからである。
 
 その時清勝の母、つまり清冶さんの妻ミツはまだ満18歳であった。そしてこの日が永遠の別れとなった。後日旭川の第7師団に面会が行ったが、既に夫清冶は南方に発ったあとだったのである。
 夫佐野清治は、昭和186月マニラ東飛行場の13飛行中隊に着任した。この部隊で、主計の仕事に携わっていたらしい。周囲の兵士に、妻ミツと生まれたばかりの清勝さんの写真を見せていたという。妻ミツが、清勝さんを胸に抱いた写真である。

アメリカ軍のルソン島上陸に備えて、部隊はルソン島北端の拠点ツゲガラクに移動した。結果的にこの中隊310名のうち実に300名が戦死していくが、清冶の場合はフィリピンゲリラの待ち伏せにあい、銃撃を受けて戦死した。

「戦友が父の指を切り取り、近くの小学校の校庭に埋めたそうです。私たち夫婦は、戦死した場所と指が埋められた場所を訪問しました」
 佐野清勝・順子さん夫妻が現地を訪問したのは、平成23月のことである。
「私たちとって、それが初めての海外旅行だったんです。それが、成田空港でテレビを見ていると当日フィリピンで軍事(エンリケ国防相)クーデターが起こり、しかもそこは、私たちが向かうツゲガラクの町だったんですよ。とても心配しましたが、ガイドと運転手をマニラで雇い片道400キロの道を車で往復したんです。途中で反乱軍の一人が、車に乗り込んできたんですよ」

清冶の亡くなった場所も、特定できたという。
「遠くに、町の赤い教会が見える広々とした農地でした」私は感心してご夫婦の話を伺っていたが、ひとつ気になる話を耳にした。

「ガイドさんも言っていましたが、元日本兵のような方が私たちをじっと見詰めているんです。年齢的にも当てはまるんですよ」相当数の日本兵が、そのまま現地にとどまっていると言われている。彼等はなぜ、日本に戻らずフィリピンにとどまったのであろうか。そして、現在どんな気持でいるのだろうか? 

「本当に惨めな行軍でした。私たちの部隊には、銃が一丁もなかったんです。そして600キロも歩いたんですよ。ルソン島のマニラから北の端までです。途中で半分の仲間が、餓死していきました。途中では、バナナと芋ばかりを食べていました」と語るのは、北海道帯広市の熊谷哲一さんである。

熊谷哲一さんは、大正8年に、現在の北海道帯広市愛国に生まれている。旧制中学校を卒業後、市役所に就職した。20歳の徴兵検査ののち昭和15年に召集され、当時花形の航空兵となった。

「実はね、私は航空兵など全く希望していなかったんですよ。私は従兄弟と一緒に帯広で徴兵検査を受けたら、その従兄弟は適性で航空兵に適しているとその場で言われたんだよ。一年後召集されたら、その従兄弟ではなく私が航空兵にされていたんです。つまりね、私は同じ苗字の従兄弟と間違われたんだよ」

こうした運命のもとで、航空兵の道に進むこととなった。満州各地の飛行場で整備兵として勤務したあと、昭和1911月に、所沢から飛行戦隊を組んで飛び立った。
「行き先は、フィリピンだと知っていました」
12月に、マニラのタラータ飛行場に移動する。その飛行場からは、連日レイテ島・ミンドロ島へと航空機が飛び立っていった。特攻攻撃も開始され、飛び立っていく飛行機は二度と帰ってこなかった。

昭和20112日に最後の飛行機が飛び立つと、もう飛行場には飛行機の姿はなかった。そして陸軍は、山下大将の命でマニラから北部への移動がはじまった。
「私たちの部隊飛行第73戦隊は、100名ほどでマニラをでたんですよ。武器なんて、なんにもありませんよ。私は軍曹だったのでピストルはありましたが、兵士たちは丸腰ですよ」

つまり、背嚢(はいのう)を背負っただけの集団が山野を歩いて、北に向かった。
「具体的な命令もないんです。なんとなく、北に向かって山や畑を歩くんです。武装もしていませんから、フィリピンの住民たちもぼんやり眺めているだけです。私達は、バナナや畑の芋を食べるだけです」

勿論、フィリピンゲリラの襲撃もあった。
「みじめなもんです。次々に病人がでて死んでいくんです。死者は、穴を掘って埋めていくだけです。途中に駐屯している日本軍に会っても、何もしてくれませんよ」

餓死者のでている友軍がいても、救出など絶対にしないのが日本の軍隊である。途中で、台湾への移動を命じられてルソン島北端のアパリを目指した。100名の兵士は50名になり、410日にアパリにたどり着いた。マニラから、600キロという途方もない距離を歩いたことになる。

しかし、台湾に渡る船など来るはずはなかったのである。熊谷哲一は、粘液性の血便を伴う病魔に冒され、生死を彷徨うが916日に終戦を知り、19日武装解除された。


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