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     凄惨「マニラ市街戦」                                             
                         ルソン島の戦いⅠ
 
                       
 
フィリピン Republic of the Philippines                         
  

  
             〈NHKのカメラに向かって語る中村勝美さん 2007 3末   捕虜時代の中村さん 左側〉
 
    
           〈中村勝美さん〉

 
           (サンチャゴ要塞の地下牢〉    

 
  
       (マニラ市内に立つ、リサールの像」〉   

  
         (;現在のマニラ市内はビルが立ち並ぶ〉  
 
  
             (静かに語る中村さん〉

       
        (上空からのマニラ市中心街のマカティ〉   

 
              (捕虜収容所で〉   
    
   
      
   (父子の別れ 右が大塚さん〉   
 
「ハポン!パタイ!」とは、「日本!死ね!」という意味である。多くの日本軍兵士が、フィリピン住民にこの言葉を浴びせられ手足を切り刻まれて殺された。フィリピン住民の憎しみは激しく、フィリピン人ゲリラに日本軍は襲われていった。これらのゲリラは、米軍指揮のものが大半であったが、「フクバラハップ」と呼ぶ抗日人民軍もあった。

フィリピン戦は、ひとつの国家がその野心によってよその国を支配し、そこで戦争をするということはいったい何を意味するのか。そしてその結果、どのようなことが起こるのかを私たちに教えてくれる。
 アメリカと日本、西洋の植民地帝国とアジアの植民地帝国の争いにこの国は巻き込まれた。日本軍はルソン島に追い詰められたが、追い詰められたという表現は正しくない。日本軍はそれぞれの島で、壊滅していくからだ。

昭和1912月米軍はミンドロ島に上陸し、日本はレイテ決戦を諦めルソン島での作戦に切り替えた。しかしルソン島決戦は、「本土決戦」の時間稼ぎの意味しかなかったのである。
 従って日本の第14軍は、ルソン島で兵力を三分しそれぞれの地域で、米軍を釘付けにすることを使命とされた。北部バギオの6個師団を「尚武集団」、マニラ東の2個師団を「振武集団」、クラーク西には「建武集団」と称して配置された。当時ルソン島の兵力は計287千名、尚武集団は山下奉文大将の152千、振武集団は105千、建武集団は3万であった。

昭和20126日、アメリカは空母12隻の大艦隊でリンガエン湾に上陸した。アメリカはわざと、3年前に日本軍が上陸した海岸を選んだ。ここに、日本軍への「復讐」の姿勢がみえる。

首都圏マニラが、攻防戦の主戦場になりそうであった。山下大将はマニラ市民を戦闘に巻き込むことを避け、山中の持久戦を選択した。米軍はマニラに向かって突進し、23日市内に突入した。

   マニラ市街戦

ここで山下大将は、マニラを戦場にしない事を主張したが大本営は認めなかった。山下の陸軍はマニラから離れたが、マニラ市内には海軍の1万が残っていた。彼らは戦車も砲もなく、小銃は3名に一挺という状況で激しく抵抗していく。    

この海軍マニラ防衛部隊4大隊に所属した一人が、中村勝美さんである。中村さんは、北海道幕別町に大正14年生まれの当時満20歳であった。「マニラ東部のマッキンレー地区を守備していました。直接米軍と対峙したわけではありません。丸一日米軍の砲撃を受けて、砲弾の飛んでこない教会の墓地の中で砲弾を避けていました」

23日市内に侵入した米軍と、激しい市街戦が三週間にわたって展開された。国会議事堂をはじめ主要な建造物はことごとく破壊され、マニラは焼け野原となっていく。見境いなく住民も戦禍に巻き込まれ、フィリピン市民の犠牲者は、10万と言われている。

「男子は情報を得たのち全部殺す事、逃げる女子も殺す事」という方針を日本軍はとり、女子供までも殺戮に巻き込まれていった。更にアメリカの無差別爆撃も、市民を殺傷した。

日本軍憲兵隊本部のある「サンチャゴ要塞」も爆撃され、フィリピン人受刑者が死亡している。「サンチャゴ要塞」とは、植民地時代にスペインが建設したマニラの中心部にある「牢獄かつ要塞」の建物である。

従って植民地時代の象徴的な存在であるが、アメリカ統治時代は陸軍本部、日本統治時代は憲兵隊本部と牢獄として使用されていた。牢獄の内部を覗くと、日本軍憲兵の人形が見えた。昭和202月、この牢獄内で600名の連合軍捕虜が殺害されたという。フィリピン人のこの戦争の犠牲者は110万人、マニラでは10万人である。

「フィリピン市民は、みんな敵だったんですよ。ふと振り返ると、垣根からピストルがむけられていることもありました。アメリカは占領時代に善政をしいて、道路や学校作ったんです。ところが日本は、フィリピンから毟り取ることはあっても与えることはなかったんですよ。フィリピン人は私たちにも平気で、マッカーサーは帰ってくるといっていました。確かに私たちも、フィリピン人の家を焼き討ちしゲリラをあぶり出しにしたりしました。でもね、私は部下にみだりに市民を殺してはいかんと言っていたんです。市街戦が始まると部下がいきり立ってしまい、市民をいきなり銃剣で刺してしまったこともありました」         

中村さんは、平和や人命への思いが強い方であった。
「私は、部下への制裁などは大嫌いでした。ですから理不尽な殺人も納得がいかなかったのです。市街戦の始まる直前に、陣地の近くにやって来た住民がいたのです。多分、薪を取りにきたのだと思うんです。それに対して上官が、私に撃つように命令したんです。 私は射撃が得意だったのですが、わざと弾をはずしたんですよ。上官は私を叱責しましたが、でも私は心の中でよかったと思ったんです」

日本軍は、無謀な夜間の斬り込み攻撃をマニラでも続けていった。212日に、中村勝美も斬り込み隊に参加している。
「死ぬ覚悟はできていたんですが、斬り込んだときは、アメリカ軍は移動したあとだったんです」

226日岩淵少将は、部下を司令部の地下室に集め酒を酌み交した後に自決した。こうして33日、マニラ市街戦は終了した。そのころマッカーサーは、「コレヒドール要塞」を奪回している。ここでは5千名の日本軍が、捕虜になることを望まず壊滅した。

226日夜、中村勝美の中隊45名はマニラから東方に後退を始めた。多くの兵士が経験する、地獄のジャングルの逃避行である。アンチポロ・ラグナ湖からアゴス川沿いにインファンタ方面に向かった。
「途中で動けなくなったものは、置いていかれました。翌日見ると、目を開けたまま死んでいる人が多かったんです。開いたままの目を、閉じてあげるくらいしか出来ませんでした」

30歳を越えた高齢の兵士が多く、体力的にも彼等は辛い立場にいた。「中村さん、日本に帰れたら服作ってあげるからね。靴作ってあげるからねといって死んでいった人が多かったですね。マラリアに最後まで罹らなかったのは、45名の中で私だけでした」

中村勝美は、現在お住まいの北海道幕別町の開拓農家に生まれている。中村家は大正3年に富山県から入植し、6人兄弟の次男として家で農業を手伝っていた。
「どうせ戦争に行くなら、飛行機に乗りたい」と、当時は航空兵を志願していた。その願いはかなわなかったが海軍に入隊し、千葉県館山の海兵団で訓練を受けた後、昭和19年マニラの第三艦隊司令部に飛行機で送られたという。その後、マニラ南方のパタンガスで飛行場の建設にあたっていた。そしてこの、マニラ市街戦へと移っていったわけである。

 マニラ東の山岳地帯では6月末に組織的戦闘が終わり、その後兵士は広大な地域に分散し自活自戦を始めた。
「あまりの悲惨な状況に、死んでいく兵隊たちが羨ましかったですね。早く楽になりたかったですよ。士官ふたりが、精神錯乱でおかしくなってしまいました。ジャパンゲリラと呼ぶ脱走兵が実は、一番怖かったですね」

アメリカ軍の斥候隊とも、何度も遭遇している。
「ある日、谷の中で涼んでいるアメリカ軍を見つけたんです。攻撃を考えたんですが、その前に迫撃砲で逆に攻撃されましたよ」
 820日すぎに、アゴス川上流のアヌリン台地で、アメリカ軍のビラを拾い敗戦を知った。そして、97日に武装解除を受けている。

45名の中隊のうち、この時生き残っていたのは7名であった。彼はパタンガスの捕虜収容所に送られた。
「パタンガスは飛行場建設にあたっていた場所だったので、顔見知りの子供や女性がいてね。ナカムラサーンと声を掛けてくれて、唯一の慰めとなったね」
 この収容所には、8千名ほどが収容されていた。その後、モンテンルバ刑務所に移されるが、ここは山下大将が処刑された場所として有名である。
 山下は昭和2093日、ルソン島のバギオで降伏文書に調印した。その時、山下を睨みつけていた老人司令官がいた。シンガポール戦での敗者パーシバルである。山下はマニラ軍事裁判へ送られ、死刑の判決を受ける。判決が行われたのは、昭和20128日である。ここでもマッカーサーは、真珠湾の「復讐」を実行したのである。処刑は、昭和21223日ロスパニオス刑務所で行われた。

 中村さんの話しを伺いながら最後に私は、少女と父親らしい写真を目にした。
「その兵隊は大塚さんと言うんです。隣にいる少女は現地の女性との間に生まれた子供です。詳しくは分からないのですが、後ろの金網の向こうにいるのが奥さんですよ。親子の最後の別れのものです」

日本の兵士とされたものは、たとえ生活の基盤がフィリピンにあったとしても、戦後日本に強制的に送り返された。こうして生まれたのが、フィリピン残留日系人や孤児である。その後この大塚さん親子がどうなったかは、中村さんも分からないという。
「フィリピン残留孤児」、これも何と悲しい言葉だろう。

    

                   
            (現在のサンチャゴ要塞の入り口〉                       〈左が中村さん。捕虜時代〉   

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