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   戦艦「武蔵」とレイテ沖海戦                                              
                         レイテ島の戦いⅥ


 
フィリピン Republic of the Philippines                         
  
     
                         〈山口昇さん中央と 戦艦「武蔵 」〉
 
 

     
          〈山口昇さん〉

  
        (後列中央 山口昇さんの少年時代〉    


          
          (;レイテ島に上陸してきた米軍〉  

          
             
   (戦艦「武蔵」〉   

 
      (バターン半島沖のコレヒドール島」  







 周りからは、兵士のうめき声が聞こえた。そして耳を澄ますと、「海ゆかば」の歌声が聞こえてきた。約千名の乗組員が、海面に漂流していた。昇には、武蔵への鎮魂歌に聞こえたが、その歌声も時間とともに小さくなっていった。
 

 浮遊物を手にできなかった兵士たちは、海底に沈んでいった。沈まぬよう、他の兵士にしがみつく者が続出した。しがみ付かれた兵士は、ともに海底に沈んでいく運命にある。他人にしがみ付かれぬよう、必死に振り払う兵士もいた。遠くに、二隻の駆逐艦が見えた。昇は、靴を脱ぎ捨てその駆逐艦を目指した。幸運にも板のような木材を手にすることができ、更に同じ医務科の宮澤盛兵長(岩手県出身)と遭遇した。

一時間ほど泳いだ後、昇は激しい嘔吐に襲われた。重油とともに、海水を飲んだためであった。その後は激しい睡魔に襲われた。眠れば死が待っている。彼の命を救ったのは、宮澤兵長であった。彼は、眠りかけていた昇を殴りつけ目を覚まさせたのである。こうして二人は、駆逐艦に救助された。

救出された「武蔵」の乗組員たちは、フィリピンのコレヒドール島に移送された。それは治療のためでなく、敗戦の事実を隠すための「隠匿」のためであった。
  

 
 山口昇さんは福井県南条町に生まれ、10歳の時に一家は北海道中札内村(当時大正村)に移住している。自作農ではあったが開拓農家の生活は貧しく、小学校は雨の日にしか登校できなかった。勉強が好きで学校に行きたかったが、三男の彼に家計はそれを許さなかった。1932年に、五・一五事件が起こっている。その日のことを、山口昇はよく記憶している。

「この日ある学校の先生が、私たちに興奮して話すんです。私は、小学校五年生でした。日本を変えなきゃいけないなどと、きっと一種の正義感に燃えていたんですね。農村は疲弊し、財閥だけが豊かだったときですから」
 暗い時代が始まっていた。前年から満州事変が始まり、侵略戦争がはじまっていた。学校でも「教育勅語」を基本にした、軍国主義教育が行われていた。昇も、学校が教える事は正しい事だと信じて疑わず、
「何時か自分も大陸の戦線で天皇陛下のために立派な戦死をして、親孝行をしなければならない」と真剣に考えていた。

同じこの年満州国が誕生し、翌年日本は国際的非難を浴びるとさっさと国際連盟を脱退、国際的に孤立する道を自ら歩み始めている。昇は、小学校を卒業し地元の青年学校に入った。ここでも、軍国主義の教育を徹底して受けることになる。

戦艦「武蔵」の建造計画が持ち上がるのは、丁度そのころである。1923年のワシントン海軍軍縮条約で、戦艦など主力艦の主要国所有比率が取り決められた。米英の5に対して、日本は3である。
 当時、国民はこの決定に狂喜した。独仏伊を抜いて、世界で3番目になったとうぬぼれたのである。しかし、年月の経過とともに米主導の国際協定の矛盾にも、気がついてくる。アメリカを仮想敵国と見なして戦力の充実を目差していた日本にとっては、この条約は大きな障害となっていった。
  レイテ沖海戦へ 1944102325

 1944年、絶対防衛圏の一角であったマリアナ諸島(グァム・サイパン島)を失った日本は、連合軍との決戦のために「捷号」作戦を立案した。
 米軍は、マッカーサーの悲願であるフィリピン奪回作戦を進め、740隻というけた違いの大船団となって昭和1910月レイテ島に上陸した。予想以上に早い米軍の侵攻に、日本はただちにこの「捷一号」作戦を発動した。

 この作戦は、当時の日本海軍の殆ど全ての艦艇を投入するもので、63隻が参加し1018日山口昇の乗り込んだ「武蔵」ら栗田中の第二艦隊も出撃した。戦艦8隻を中心とする、日本海軍最後の大艦隊である。しかし、近代戦の主役「空母」は一隻もいなかった。第三艦隊小沢中将の機動部隊(空母4隻)も、1019日瀬戸内海を出港、フィリピンに向かった。

この作戦は、栗田艦隊がパラワン水道からレイテ湾へ、戦艦「山城」「扶桑」を中心とする西村艦隊が、スリガオ海峡からレイテ湾へそれぞれ突入するというものであった。その突入時刻を1025日午前0時とし、レイテ島沖の米艦隊を、砲撃して殲滅するという夢のような作戦である。

その間小沢機動部隊は囮となって米空母部隊を北へ誘い出し、栗田艦隊のレイテ突入を助けることになっていた。また、機会があれば116機の艦載機で米艦隊を攻撃することも計画されていた。この小沢艦隊は、米軍を引き付け幻惑する事が使命であった。こんなことが、作戦なのであろうか? こんな作戦は始めから、成功するはずはなかった。

米軍は夥しい数の偵察機と潜水艦によって、常時日本軍の動きを監視していたのである。この作戦は、「海の玉砕攻撃」に他ならなかった。
 「武蔵」も、決戦の準備に入った。全ての可燃物が艦内から運び出され、机・ベッドなどの木工製品から、塗装した燃えやすいペンキも全て剥ぎ取られた。その反面、外装には真新しい塗装が施された。

「こんなに綺麗に塗ったら、敵の目印になるじゃないか」
「武蔵がオトリにされちゃあ、たまらんよ」と、兵たちはささやきあった。結果的に、「武蔵」は集中攻撃を浴びることになる。後に、「大和の身代わりとなった」「あの塗装は死装束だった」と山口昇たちは思った。更にすべてのボート類・命の綱救命ボートの果てまで陸上に上げてしまった。
 その夜、武蔵の艦内では出撃祝いの酒宴が催された。死を前にした酔えない酒であった。兵隊たちは、郷土民謡を合唱し、それは郷愁を誘う悲しい響きであった。四〇歳を越えた兵士たちも大勢いた。当然ながら、日本に家族を残している。彼等は、家族の写真を抱きしめたまま眠った。

  「戦艦武蔵」の最期

治療室には血が溜まってハッチから溢れ、その中で負傷者たちは腰を血に浸らせながら座っていた。早朝から4度に渡る米軍機の攻撃で、「武蔵」の傾斜は戻らなかった。1024日の、ことである。
 そして午後3時過ぎの5回目の攻撃(67)は、満身創痍となった「武蔵」に集中した。この攻撃で爆弾10発、魚雷11本をうけた「武蔵」はついに航行不能となった。

昇には、エンジン音・スクリュー音もやがて聞こえなくなった。発電機が破壊され、次次と照明が消えていった。やがて、
「総員集合!後甲板!」と、伝令が聞こえ、昇は暗い階段を上り甲板に這い出した。そこで、目にしたものは「武蔵」の絶望的な光景であった。近くに「大和」「長門」の無事な姿が見えたが、「武蔵」の船首は既に水没していた。加藤副長の訓示を、昇は耳にした。
「猪口艦長は負傷されたが、極めてお元気である。本日の戦闘に諸君は良く闘ってくれた。しかし、状況は諸君の見ての通りである。残念ながら明朝の総攻撃に、参加することが出来なくなった。諸君も信じているとおり、武蔵は絶対に沈まない。只今より、総員をもって応急作業にあたる」

しかし、武蔵は少しずつ沈みはじめ、主砲の砲塔は浮島のように見えた。艦の傾斜は更に進み、艦内からは物が転がる音が聞こえた。艦内には、まだまだ負傷し動けない兵たちが残っていた。そしてついに「総員退去!」の命令が伝えられた。

左舷甲板から海に飛び込めば、このあと直ぐの沈没の渦に巻き込まれるであろう。傾斜した甲板を、芋が転がるように大勢の兵士たちが転がりおち始めた。後甲板には、大勢の兵がひしめいていた。昇は、右舷に移動した。そしてカタパルトから二本のロープが垂れ下がり、兵たちが次々と滑り降りるのを見た。

甲板を移動していてはやがて訪れる沈没に間に合わないと考えた昇は、とっさに医療用綿花の束を二個包帯で縛り、自分の右手に通した。そして、左手をハンドレールにかけてカタパルトをつたわり海面に向けて滑り落ちた。その時艦は横倒しになり、昇は途中で貝殻の付着する艦底に立ってしまった。

「武蔵」のふたつの巨大なスクリューが、海中から踊り出た。艦尾から飛び降りて、このスクリューに叩きつけられた兵も多かった。昇は夢中で艦底を走り、そして蹴った。重油の海シブヤン海に、跳び込んだのである。海はうなっていた。「武蔵」は沈没の時に二度の大爆発を起こしている。海水ごと吹き飛ばされたり、内臓を破裂させたりする兵士がいた。

昇はいつしか気を失い、この爆発の記憶がない。幸運にも昇の内臓は破裂していなかった。武蔵以外にも、戦艦「長門」重巡「利根」駆逐艦「清霜」「浜風」等が被害を受けていた。

栗田中将は、艦隊に反転命令を出した。この反転を知ったハルゼー大将は、栗田艦隊への攻撃を中止し、小沢機動部隊を攻撃するために北上を開始した。栗田中将は、空襲が止んだ午後545分再び反転し、レイテへの進撃を開始した。合計20本の魚雷と17発の直撃弾をうけシブヤン海を漂流していた「武蔵」は、午後735分艦首から水深740メートルの深海に沈没していった。

正気に戻った昇の体は、重油の海に浮いていた。所によっては、重油の厚さが50センチにもなっていた。重油は暖かく、それ自体が眠気を誘っていった。昇が浮いていられたのは、右手につけていた綿花のたばのおかげであった。

           
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