HOME〉philippines Philippines 7 >2003-04 セブ島への撤退 レイテ島の戦いⅤ フィリピン Republic of the Philippines |
〈セブ島からレイテ島を指差す〉 (セブシティはジープニーが多い〉 〈歓迎してくれたアチョンブレさん〉 (奥さんのエノティータさん〉 (右は運転手のルンバブさん〉 (カメルンで偶然見つけた慰霊碑〉 |
セブ島は、現在リゾートの島として7千あるフィリピンの島の中ではもっとも日本人に染みのある島である。マゼランの上陸でも有名なこの「セブ島」が、レイテと同じく「墓場の島」となっていたとは、私はこれまで全く知らなかった。 マッカーサーの4個師団は、昭和20年1月9日ついにルソン島リンガエン湾から上陸を開始する。これを知った山下大将は、見込みのないレイテ作戦を中止してしまった。ここで、レイテは見捨てられた。 孤立無援のレイテ島の日本軍は、どうすることも出来なかった。海上には、アメリカの魚雷艇が日本軍を見張り上空には、観測機が絶え間なく飛んでいた。 70人乗り発動艇(大発)は、当時セブ島には4隻しかなく、海も空も米の魚雷艇と飛行機に制圧されていた。レイテ島に生き残った2700名を無事に移動させることは難しかったが、島に残れば死ぬこと以外に道がないことは、誰にでも想像がつく。 そこで健康な者が優先され、動けない者はやはり見捨てられていく。作戦は秘密に勧められ、兵には、「パロンポン付近に上陸した敵を攻撃する」という名目で、健康な者から乗船させた。これが、生死のわかれ道になった。 セブ島への移動とは夢にも思わない兵たちは、命令を受けると諦めの思いを胸に乗船地のアビハオへ向かった。昭和20年1月12日早朝、セブ島から発動艇4隻が米軍魚雷艇の間隙をぬって、レイテ島のアビハオに着いた。 梶尾茂は、片岡師団長と同じ1月18日の午前1時30分出港したことになる。対岸のセブ島タボゴンまで6時間ほどかかり、午前6時30分には日が昇り明るくなってきた。すると4機のB24が、レイテ島方面から現れた。 兵士たちは、覚悟を決めたという。しかしそのB24は、4隻の大発など目もくれずネグロス方面に飛び去った。命拾いしたどり着いたセブ島タボゴンには、陸軍船舶工兵400名(品田大尉)が駐屯していた。この部隊が、危険な海上輸送にあたっていた。 リロアンとカルメン セブ島のリロアンと言う町で、私は偶然にもこの「陸軍船舶工兵」の足跡に触れることができた。セブ島で偶然乗り合わせたタクシーの地元運転手に、訪問の理由を話すと、 まずは、100万都市セブシティにあるホテル「セブプラザホテル」の敷地にある「セブ観音」を訪問し、リロアンに向かって北上した。 そのリロアンの教会に慰霊碑があるらしいがあいにく教会内に立ち入れず、そこで近くの、あるお宅を訪問した。ご主人のペドロ・アチュンブレさんは、あるプレートを私に差し出した。そこには、その陸軍船舶工兵部隊の名が記され「リロアン会」という名称もついていた。彼によれば、この部隊の方々と親交があり近年茨城県の小学校を親善訪問し、日本とフィリピンとの友好関係に寄与しているという。 ペドロ・アチュンブレさんは79歳、現在は歯科医をされているが、以前はこのリロアンの町の副町長をされていたという町の名士であった。奥さんのエノティータさん72歳は、片言の日本語を話す。 道沿いに日本企業が、工場進出している。80年代を中心にアジアへの日本の経済進出は目覚しいが、反日感情の強かったフィリピンは例外だった。フィリピンは反政府のゲリラ活動が盛んで、日本企業が進出を見合わせてきた。このセブ島に比較的日本企業が多いのは、島が細長くゲリラが拠点とする山岳地域が少ないことが理由だという。 車は、小さな集落の隅についた。そこには、小さな慰霊碑が建っている。「横浜市 福田幸男・キミ子建立」という文字が入っていた。ここで亡くなった方は、いったいどんな方なのだろう。 地名は「カルメン」、帰国後私は早速調査をした。電話で、福田幸男さんとお話をすることができた。 「私の妻キミ子の兄福田村冶が、ここで亡くなっているのです。昭和20年1月31日に、ゲリラと戦闘になって戦死したんです。23歳くらいだと思います。部隊は林部隊です。自動車部隊ですよ」 林部隊であれば、第1師団輜重兵第1連隊(1250名)の第4自動車中隊(林孝雄大尉)を指す事になる。セブ島タボゴンに渡った第1師団の兵力は、わずか741名であった。米軍が上陸してくるまでのセブ島では、セブ市に物資があり、1月28日・2月14日27日の三度にわたって、物資の受け取りに出発している。無論車両は無く徒歩の輸送部隊である。 1月28日タボコンを出発した200名の輸送部隊は、地元ゲリラの襲撃を幾度も受けながら進んだ。そしてこのカルメンに差し掛かったところで大規模な襲撃を受けた。この戦闘で支社が出ている。 車の中で、運転手ルンバブさんの話を伺った。 昭和20年3月26日、セブ市の南にアメリカ軍1個師団が上陸し、北上を開始した。たちまちセブ島全域に戦火が広まっていく。 3月24日レイテからセブの軍司令部に移動した鈴木司令官は、タボゴンの片岡第1師団長のもとへ引き返した。もうそこからミンダナオ島に渡る以外に、道が無くなっていく。第1師団も次の予定地ネグロス島への移動を諦めて、セブ島で最後まで戦うことになった。 鈴木軍司令官は、4月10日ミンダナオ島へ出発したが、海上でアメリカ機の攻撃を受け海に沈んだ。4月23日には、師団司令部もほとんど全壊していく。米軍とまともに戦闘することをやめ、勝ち目のないゲリラ戦法に切り替えていった。 8月15日の終戦を、司令部はホノルルからの放送を聞き確認した。9月28日約500名がイリハンで投降し、セブ収容所に収容させていく。第1師団長片岡薫もそして梶尾茂も、その中に含まれていた。 「日本が負けるなど、考えてもいませんでした。いつかきっと、挽回すると思っていたんですよ」梶尾茂 |
(セブシテイもストリートチルドレンが多い。差し出される小さな手が悲しい〉 BEFORE〈〈 〉〉〉NEXT |