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      セブ島への撤退                                              
                         レイテ島の戦いⅤ


 
フィリピン Republic of the Philippines                         
 
 
        〈セブ島からレイテ島を指差す〉

  
         
 (セブシティはジープニーが多い〉

     
        〈歓迎してくれたアチョンブレさん〉

         
           (奥さんのエノティータさん〉    


  
         (右は運転手のルンバブさん〉  

        

        (カメルンで偶然見つけた慰霊碑〉   

    
         
  
セブ島は、現在リゾートの島として7千あるフィリピンの島の中ではもっとも日本人に染みのある島である。マゼランの上陸でも有名なこの「セブ島」が、レイテと同じく「墓場の島」となっていたとは、私はこれまで全く知らなかった。

マッカーサーの4個師団は、昭和2019日ついにルソン島リンガエン湾から上陸を開始する。これを知った山下大将は、見込みのないレイテ作戦を中止してしまった。ここで、レイテは見捨てられた。

孤立無援のレイテ島の日本軍は、どうすることも出来なかった。海上には、アメリカの魚雷艇が日本軍を見張り上空には、観測機が絶え間なく飛んでいた。
 レイテ島に残された部隊は、セブ島かミンダナオ島への脱出を考え始めた。まずは第1師団の生存者を目の前のセブ島に移動させることになったが、ビリヤバにいた片岡師団長は、これに難色を示した。

「すでに自分は1万の兵を失っている。既に亡くなった兵士のためにもこのレイテ島で玉砕させてくれ」と。これに対して第35軍司令官鈴木中将が、彼を説得した。

70人乗り発動艇(大発)は、当時セブ島には4隻しかなく、海も空も米の魚雷艇と飛行機に制圧されていた。レイテ島に生き残った2700名を無事に移動させることは難しかったが、島に残れば死ぬこと以外に道がないことは、誰にでも想像がつく。

そこで健康な者が優先され、動けない者はやはり見捨てられていく。作戦は秘密に勧められ、兵には、「パロンポン付近に上陸した敵を攻撃する」という名目で、健康な者から乗船させた。これが、生死のわかれ道になった。

セブ島への移動とは夢にも思わない兵たちは、命令を受けると諦めの思いを胸に乗船地のアビハオへ向かった。昭和20112日早朝、セブ島から発動艇4隻が米軍魚雷艇の間隙をぬって、レイテ島のアビハオに着いた。
 こうして1月12日から20日にかけて、合計4回で740名がセブ島に渡った。その距離は僅か50キロほどである。先の梶尾茂も、セブ島に奇跡の移動をした一人である。

「私は気が進まなかったんですが、堀内中尉に命令を受けて乗せられました。やはりパロンボンの米軍を攻撃すると、聞かされていましたよ。3回目の転進の時です」

梶尾茂は、片岡師団長と同じ118日の午前130分出港したことになる。対岸のセブ島タボゴンまで6時間ほどかかり、午前630分には日が昇り明るくなってきた。すると4機のB24が、レイテ島方面から現れた。

兵士たちは、覚悟を決めたという。しかしそのB24は、4隻の大発など目もくれずネグロス方面に飛び去った。命拾いしたどり着いたセブ島タボゴンには、陸軍船舶工兵400(品田大尉)が駐屯していた。この部隊が、危険な海上輸送にあたっていた。

リロアンとカルメン

セブ島のリロアンと言う町で、私は偶然にもこの「陸軍船舶工兵」の足跡に触れることができた。セブ島で偶然乗り合わせたタクシーの地元運転手に、訪問の理由を話すと、
「私の地元ルゴには、日本兵の遺骨がよく出てくるよ。洞窟があってね、中には日本語が書かれてあるんだ。僕らにはさっぱり意味が分からないだけど。外に慰霊碑などもあるね」運転手の名は、ブイ・ルンバブ45歳である。私はセブ島滞在中に連絡をとり、彼に再会した。時間的に可能なポイントを車で案内してもらうことにした。

まずは、100万都市セブシティにあるホテル「セブプラザホテル」の敷地にある「セブ観音」を訪問し、リロアンに向かって北上した。 

そのリロアンの教会に慰霊碑があるらしいがあいにく教会内に立ち入れず、そこで近くの、あるお宅を訪問した。ご主人のペドロ・アチュンブレさんは、あるプレートを私に差し出した。そこには、その陸軍船舶工兵部隊の名が記され「リロアン会」という名称もついていた。彼によれば、この部隊の方々と親交があり近年茨城県の小学校を親善訪問し、日本とフィリピンとの友好関係に寄与しているという。

ペドロ・アチュンブレさん79歳、現在は歯科医をされているが、以前はこのリロアンの町の副町長をされていたという町の名士であった。奥さんのエノティータさん72歳は、片言の日本語を話す。
「私の父親は日本人でした。沖縄で漁師をしていました」沖縄とフィリピンとの、交流の歴史は長い。ここにも日本人の血が流れていた。
「見せたいものがあります。どうぞこちらに来てください」自宅の中庭にはいると、なんと日本軍の機関銃があった。紛れもなく日本軍のものであった。私たちは、お礼を言い更にセブ島を北上した。

道沿いに日本企業が、工場進出している。80年代を中心にアジアへの日本の経済進出は目覚しいが、反日感情の強かったフィリピンは例外だった。フィリピンは反政府のゲリラ活動が盛んで、日本企業が進出を見合わせてきた。このセブ島に比較的日本企業が多いのは、島が細長くゲリラが拠点とする山岳地域が少ないことが理由だという。

車は、小さな集落の隅についた。そこには、小さな慰霊碑が建っている。「横浜市 福田幸男・キミ子建立」という文字が入っていた。ここで亡くなった方は、いったいどんな方なのだろう。 地名は「カルメン」、帰国後私は早速調査をした。電話で、福田幸男さんとお話をすることができた。

「私の妻キミ子の兄福田村冶が、ここで亡くなっているのです。昭和20131日に、ゲリラと戦闘になって戦死したんです。23歳くらいだと思います。部隊は林部隊です。自動車部隊ですよ」

林部隊であれば、第1師団輜重兵第1連隊(1250)の第4自動車中隊(林孝雄大尉)を指す事になる。セブ島タボゴンに渡った第1師団の兵力は、わずか741名であった。米軍が上陸してくるまでのセブ島では、セブ市に物資があり、1月28日・2月14日27日の三度にわたって、物資の受け取りに出発している。無論車両は無く徒歩の輸送部隊である。          1月28日タボコンを出発した200名の輸送部隊は、地元ゲリラの襲撃を幾度も受けながら進んだ。そしてこのカルメンに差し掛かったところで大規模な襲撃を受けた。この戦闘で支社が出ている。
 その1人が
福田村冶さんと考えられる。レイテ島からセブ島に脱出できたが、ここで戦死するとはなんと無念のことであったことか。私は冥福を祈った。

車の中で、運転手ルンバブさんの話を伺った。
「私の父は、マンヌエル・ルンバブと言います。現在80歳でルゴに住んでいますよ。父は当時日本兵に食料を奪われて、苦労したようです。日本兵に会うとオハヨウゴザイマスと、無理やり言わされていました。日本兵に父は、マリンさんと呼ばれていたそうです。生きていくために先に日本軍にバナナなどを渡して、必要最低限のものは自分の所に残しておいたそうです。みんな、生きていくために必死だったんです。父の家の近所に、ジャパニーズサムライ(元日本兵)が住んでいます。家族はいません、80歳くらいです。今も生きているはずです」。ジャパニーズサムライの話は信憑性が低いが、興味深い話であった。

昭和20326日、セブ市の南にアメリカ軍1個師団が上陸し、北上を開始した。たちまちセブ島全域に戦火が広まっていく。 324日レイテからセブの軍司令部に移動した鈴木司令官は、タボゴンの片岡第1師団長のもとへ引き返した。もうそこからミンダナオ島に渡る以外に、道が無くなっていく。第1師団も次の予定地ネグロス島への移動を諦めて、セブ島で最後まで戦うことになった。

鈴木軍司令官は、410日ミンダナオ島へ出発したが、海上でアメリカ機の攻撃を受け海に沈んだ。423日には、師団司令部もほとんど全壊していく。米軍とまともに戦闘することをやめ、勝ち目のないゲリラ戦法に切り替えていった。

815日の終戦を、司令部はホノルルからの放送を聞き確認した。928日約500名がイリハンで投降し、セブ収容所に収容させていく。第1師団長片岡薫もそして梶尾茂も、その中に含まれていた。

「日本が負けるなど、考えてもいませんでした。いつかきっと、挽回すると思っていたんですよ」梶尾茂
 こうして、セブ島・レイテ島の戦いは幕を閉じた。セブ島での戦没者は、12千名と言われている。

   
   
                (セブシテイもストリートチルドレンが多い。差し出される小さな手が悲しい〉   

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