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  ビリヤバと特殊部隊第68旅団                                              
                         レイテ島の戦いⅣ


 
フィリピン Republic of the Philippines                         
  
     
                        〈ビリヤバ集落にはいくつかの慰霊碑がある〉
 
 
 
         
           〈奥田覚衛さん〉

        
           
 (美しいビリヤバの海岸〉

 

      
     〈歓迎してくれたサンタナ先生とルシータさん〉

     
       (カンギポット山麓にも第68旅団の慰霊碑が〉    


          
        (藤田篤さんも第68旅団の一員だった〉  

        

           (松山正一さん〉   

         
          (ビリヤバにある慰霊碑〉   
  
  

 
       
        (どこでも、子供が集まってくる〉   

  

  

    
      (こちらはカンギポット山での子供たち〉


レイテでマッカーサーの上陸部隊を迎えうった第16師団は、そのほとんどが戦死している。マッカーサーは、バターン半島でこの第16師団に敗北したことを忘れていなかった。

16師団の捕虜も、殆どいなかった。それを知ったマッカーサーは、「バターンの復讐」に成功したと感じた。正一は、本当に爆薬を背負ってアメリカ軍に立ち向かっていったのであろうか?

  
 私には、自分の親族に心当たりがあった。どうやら私の祖母の弟が、フィリピンで戦死しているらしい。私は祖母ゆきえの弟奥田正稔(まさとし)を、北海道北見市端野に訪ねた。

「あああ、覚衛(かくえい)という兄で、レイテ島で戦死したんだ。レイテ島のなんとかという高原だぞ」
 私はこのなんとか高原というのは、カンキボット山ではないかと感じた。
「レイテ島の、ビヤリバ高原というところだ」と奥田正稔は言う。私は持参したレイテ島の地図で、その地名を探した。あった、「ビヤリバ」ではなく「ビリヤバ」であった。しかもカンキボット山の麓の集落ではないか。
「やっぱり」私の予想は的中した。
覚衛には、妻も子もいるぞ」

奥田覚衛は、四男であった。奥田家は、明治31年に福井県から入植した屯田兵である。彼は、明治45年に現在の北海道北見市端野に生まれている。昭和8年に旭川第7師団に入隊し、そのまま軍人の道を進んでいる。

満州公主嶺の第460部隊に配属され、家庭でも二児が誕生している。しかし家族の幸福は、父覚衛の南方派遣で崩れ去ってしまった。戦死した場所は、レイテ島ビリヤバ。日付は昭和20717日、その時の階級は准尉となっている。

私たちの車は、ビリヤバの町におりてきた。
「実はビリヤバは、私の夫の故郷なんです。私は沖縄生まれですが、フィリピン人の夫と出会って1961年にこの村に来たんですよ。3年間住んでいたんで、知り合いも多いんですよ」

車内での上原富子さんの話に、私は目に見えない糸を感じた。ビリヤバの町は、海岸伝いに点在しているらしい。
40年前は勿論電気もなくて、ランプ生活でしたよ。トイレだって、あってないようなものでしたから」富子

私達はまず、慰霊碑に向かった。美しい海岸をバックに、小さな地蔵が並んでいた。真冬とは言え時刻が正午に近づき、強烈な陽射しに眩暈がしてくる。

私は、この村に日本から学用品を持参してきた。日本が迷惑をかけたこの地の小学校に、届けようと考えたのである。この日は土曜日、しかも冬休みということで、直接校長先生の自宅を訪問することにした。ビリヤバセントラル小学校の校長カルティト・サンタナさんと、奥さんのルシータさんはとても気さくで、私たちを快く受け入れてくれた。

かつての漁村ビリヤバは、人口2万人の大きな町に変貌していた。困ってしまったのは、
「生徒は、700名ほどいますよ」サンタナさん。
「えっっっ。そんなに大勢ですか。50人くらいだと思っていました。700人分も学用品を準備していません」
「ははははっ。大丈夫です。くじ引きをして、配りますよ」
 サンタナ先生には、反日感情の微塵も見えない。奥さんのルシータさんは、帰り際の私たちに手製のバナナケーキまで渡してくれた。心温まるひと時であった。

町なかの食堂で昼食をとったのち、もうひとつの慰霊碑に向かった。海岸沿いに、日本フィリピン合同の慰霊碑が建っている。横浜の梶尾茂さんによると、この地点に転進してきた第1師団の司令部が置かれたという。この慰霊碑から、西を見るとセブ島が見える。セブ島まで50キロといわれているが、肉眼で見えるのであるからもっと距離がないように感じた。

この慰霊碑を見ると、現地のフィリピンの犠牲を忘れては成らない。多くの現地フィリピン人が、理不尽な日本兵の虐待を受けていた。上原富子さんの亡くなったご主人は、当時19歳でこのビリヤバにいたという。

「私の夫の頭骨には、日本の兵士に銃床で殴られて陥没した部分があるんです。その夫の父親にも、同じような傷がありましたよ。だから私の夫は、日本を恨んでいました。なのに日本人である私と結婚し、村に私と四人の子供を連れて帰ったのですから、周りの村人におまえ日本をうらんでいたくせにと随分と冷やかされていましたよ」

 富子さんは笑って話してくれたが、この話を聞いて私は苦笑するのが精一杯であった。

奥田覚衛の所属部隊は「比島派遣威10005部隊沖隊」となっている。私はこの沖という人物が、68旅団歩兵第126連隊の連隊長沖静夫大佐であることを見つけ出した。
 この第68旅団とはそして歩兵第126連隊とは、いったいどんな部隊であり、そしてどんな運命を辿っていったのだろうか。

68旅団       

68旅団の正式名は、独立混成第68旅団(星)である。この部隊は1939年満州公主嶺に創設された「特殊部隊」である。従って、全国から選抜された優秀な兵が集められた。

兵は眼鏡付短小銃、下士官はベルト式自動小銃を、部隊は一式47粍速射砲・百式火炎放射器等、他の部隊にはない近代装備を持っていた。また兵には、防蚊面・手袋など米軍に劣らない装備が与えられていた。兵の階級も一番下が上等兵で、命令は筆記せず全てそらで覚えたという。

太平洋戦線が逼迫してくると、臨時編成の部隊が誕生するが、この「独立混成第68旅団」も、新編成された部隊である。この旅団は、司令部、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊を中心に総勢4377名で構成されていた。

昭和196月に編成されたこの旅団は、73日貨車にすし詰めにされ、釜山まで鉄道で輸送されていった。ここから輸送船3隻で台湾に到着し、基隆から新竹に移って小学校に分宿した。ここで、上陸訓練を実施している。竹の筏に兵器を積み上陸し、海岸で蛸壺を堀りただちに足跡を消すなどの隠密行動の訓練である。当時は、「サイパンへの逆上陸」と兵たちは信じていた。
 この旅団の弱点は、全く機動力を持っていなかったことであった。つまり輸送車両がほとんどなく、重い砲などを移動させることができなかった。しかも台湾から輸送する船舶もなかなか準備できず、米軍がレイテに上陸した直後に慌ててレイテ投入が決定した。その作戦は、レイテの米軍後方への逆上陸であった。

飛行場が集中しているドラグへの上陸を、当初第35軍は考えていたが、準備がもたつく間に、戦局は大きく動いていく。海岸線を守っていた第16師団を粉砕した米軍は、21日にはタクロバンを25日ブラウエンを制圧してしまった。

こうして米軍に先手を打たれてしまった第35軍鈴木中将は、レイテ決戦作戦を立てる。それは占領されたタクロバンを奪回し、そのまま南下して島全体を奪い返そうという夢のような計画であった。

まず第102師団が北岸を進み、その後方から第1師団が中央からは第26師団が、南部へは第16師団と第30師団が担当するというものである。

そして第68旅団はレイテ北岸に上陸し、第1102師団を援護するというものであった。しかし、10月末までにレイテに到着していたのは、第102師団だけであった。しかも米軍の進撃は早く、カリガラ平野での激突が予想されるようになってきた。そのカリガラに向かって第1師団が進んだが、その前にリモン峠で米軍と衝突し死闘を繰り広げることになる。
 こうして夢のような作戦は変更され、日本軍は「ブラウエン飛行場奪回」を考える。この作戦は125日に落下傘降下で飛行場を奪い返し、レイテに増援部隊を送り込む。この増援に、第68旅団が当てられてることになった。
 第68旅団は、1030日から輸送船で台湾からマニラに向かった。制空権を失ない、輸送船が無傷でマニラに到達することは不可能であった。12隻の輸送船のうち3隻がまず途中で撃沈され、2隻が座礁した。

到着は大幅に遅れ、1123日にようやくマニラに集結している。マニラを出港した輸送船4隻は、第35軍司令部のあるオルモックを目指したが、情勢に大きな変化が起こった。なんとオルモック南に、米軍1万の大軍が上陸してきたのである。  

オルモックの日本軍は、狼狽した。ブラウエンの前線に部隊の大半を送り出していたオルモックは、たちまち米軍に制圧された。この知らせ受けた船団は、西岸のサンイシドロに上陸地点を変更する。

127日正午、米軍機の攻撃を受けながら輸送船は次々と砂浜の乗り上げた。乗り上げた輸送船は燃え上がり、装備の相当数が燃えてしまった。しかし、着のみ着のままで上陸したという訳ではなかった。上陸した装備には、十榴3門、野砲1門、連隊砲2門、ロケット砲まであった。日本は手持ちの精鋭部隊と新兵器の全てを、レイテ島に投入したわけである。

上陸した5千の兵は、歯まで偽装を施した「特殊部隊」の精鋭であった。当初これを知った米軍は、恐怖感を覚えた。

1師団が苦闘しているリモン峠に、援軍として向かうことになった。しかし、問題が発生した。やはり牽引車両をもたなかったため重砲の運搬が出来ず、折角揚陸した砲を、その場に放置することになった。
 しかも米軍の砲撃に、旅団はたちまち射すくめられてしまった。前進は止まり、撤退しはじめた第1師団を収容ながら12月末にビリヤバに移動していく。
 2月中旬に、米軍はここで一気に攻勢をかけてきた。旅団は後退を開始する。3月中旬ビリヤバ東に追い込まれた旅団は、自戦自活のジャングル生活をすることになる。そして5月下旬には、組織的行動はほぼ不可能となった。

 この後のレイテの戦場は、掃討戦となって、720日頃には旅団の消息は完全に途絶えいく。兵達は、遊兵となってジャングルをさ迷って消えていった。
 815日の終戦の後兵達は米軍に収容されたが、旅団の生還者は10名程度と言われている。

戦後(1950年頃)にも、レイテでは日本兵があちこちで生き残っていた。その中に、少将クラスを長とした戦意旺盛なゲリラ集団がいたと地元紙は報じている。当時この地区の少将級で消息が分からない人物が、旅団長の来栖少将である。このゲリラ部隊の指揮官は、来栖少将だという説がある。とにかく、68旅団の全体像はなかなか分かっていない。ある記録では6392名の将兵のうち、6302名が戦死とされている。

私はこの第68旅団で戦死した遺族の一人とお会いできた。北海道音更町藤田邦夫さんである。戦死した兄の藤田篤は、大正9年に北海道清水町に生まれている。

藤田篤は、出征前は三笠市で炭鉱夫として働いていたが昭和17年ころ志願して入隊したようだ。最後に所属した歩兵第126連隊は、独立混成第68旅団の中心となる部隊である。

「兄は体格もよくて、元気者でした」邦夫。なるほど、特殊部隊向きの条件を備えていた。
「こんなものが、残っています」そう言いながら邦夫さんが私に差し出したものは、兄篤の遺書であった。

遺書ご両親様。二十年間の長い間色々御庭訓下さり有難う御座位ました。なにひとつ孝行もできず残念でした。この一大国難の秋、篤は喜んで満州の第一線に立ち陛下の御為一身を国君に捧げます何卒御安心下さい お体を大切に    兄上様
 父上様に無理なされぬ様、大事にして下さい。
妹弟を可愛がってやってください。また勇兄上様には、名誉の戦傷とは残念のその心の中を察します。篤は代わって仇討ちに第一線に立ちます。
今後全快療養いたすことをお祈りいたします。
      昭和十八年ニ月十九日夜     篤 印
      滅死奉公 

まさに、息を飲むような内容であった。文の最後に大きく書かれた「滅死奉公」の文字はいったい何なのであろうか。「滅私」ではなく、「滅死」とは?
 特殊部隊とは言え事前に遺書を書かせる軍隊とは、いったい何なのだろうか。そして、陛下の御為とは?

「母は、よく眠れない夜が多かったようです。出征している三人の兄たちの夢をよく見て、夜中に息子が帰ってくるといって突然飛び起きたりしていました」邦夫
 戦死公報によると、藤田篤の死亡はレイテ島ビリヤバ・昭和20717日とされ、奥田覚衛と全く同じであった。

 同じように「昭和20717日戦死」の方を発見した。北海道本別町出身の、松山正一である。松山正一の妹伊藤道子さんは、現在同じ北海道本別町にお住まいであった。
「兄は、レイテ島のビリヤバでなくなっています」やはり、ビリヤバであった。
「どこの部隊だったのかも、分からないんです。気丈な母が亡くなった兄のものを、戦後何もかも焼いてしまったものですから。ただ京都の部隊だと、言っていました」

京都の部隊と言えば、ほぼ全滅した16師団ということになる。いつどうして第16師団に配属になったかは、今になってはなにも分からない。
 松山正一は大正8年に、北海道陸別町で生まれている。
「母親と、三人暮らしでした。電気がなくてね、ランプ生活だったことを覚えています。兄とは年も離れていましたので、父親みたいでしたね。とても母親思いの、優しい兄でした。
 母親は字の読み書きの出来ない人でしたので、兄を学校にやりたかったのですが、兄は小学校をでると近所の馬橇(ばそり)屋に住み込みに行きました」

そして昭和15年、21歳になった正一は出征した。
「気丈な母は駅までしか行きませんでしたが、小学生の私は池田駅まで親類の人と見送りに行ったんです」
 満州に送られた正一は、昭和18年ころレイテ行きを前に、一時帰郷している。これが、道子さんとの最後の対面となった。

「私は当時、寄宿舎生活をして帯広の高等女学校に行っていました。ある日、兄から学校に電話がきたんです。夜、兄が里帰りの途中に寄った帯広駅近くの出雲屋旅館に面会に行きました。兄と、その戦友の釧路の方がいました。兄が席を立った時、その釧路の方が私に耳打ちしたんです。 いいかい、これから聞く事は絶対に誰にも話してはいけないよ。
 お兄さんは工兵隊といっても、ただ橋をつくったりするだけではないんだ。爆弾を背負って、鉄条網に突っ込んでいく任務につくんだよ。このことは、お母さんにも絶対に話してはいけないよと。このことをお話するのは、これが初めてなんです」
 60年間も秘めていたことを、この日道子さんは私に話してくれた。次の日正一は故郷で、母親と二人きりの再会を果たした。母子には、どんな会話が交わされたのだろうか。

           
             
              
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