HOME〉philippines Philippines 6 >2003-04 ビリヤバと特殊部隊第68旅団 レイテ島の戦いⅣ フィリピン Republic of the Philippines |
〈ビリヤバ集落にはいくつかの慰霊碑がある〉 |
〈奥田覚衛さん〉 (美しいビリヤバの海岸〉 〈歓迎してくれたサンタナ先生とルシータさん〉 (カンギポット山麓にも第68旅団の慰霊碑が〉 (藤田篤さんも第68旅団の一員だった〉 (松山正一さん〉 (ビリヤバにある慰霊碑〉 (どこでも、子供が集まってくる〉 (こちらはカンギポット山での子供たち〉
レイテでマッカーサーの上陸部隊を迎えうった第16師団は、そのほとんどが戦死している。マッカーサーは、バターン半島でこの第16師団に敗北したことを忘れていなかった。 第16師団の捕虜も、殆どいなかった。それを知ったマッカーサーは、「バターンの復讐」に成功したと感じた。正一は、本当に爆薬を背負ってアメリカ軍に立ち向かっていったのであろうか? |
私には、自分の親族に心当たりがあった。どうやら私の祖母の弟が、フィリピンで戦死しているらしい。私は祖母ゆきえの弟奥田正稔(まさとし)を、 「あああ、覚衛(かくえい)という兄で、レイテ島で戦死したんだ。レイテ島のなんとかという高原だぞ」 奥田覚衛は、四男であった。奥田家は、明治31年に福井県から入植した屯田兵である。彼は、明治45年に現在の 満州公主嶺の第460部隊に配属され、家庭でも二児が誕生している。しかし家族の幸福は、父覚衛の南方派遣で崩れ去ってしまった。戦死した場所は、レイテ島ビリヤバ。日付は昭和20年7月17日、その時の階級は准尉となっている。 私たちの車は、ビリヤバの町におりてきた。 車内での上原富子さんの話に、私は目に見えない糸を感じた。ビリヤバの町は、海岸伝いに点在しているらしい。 私達はまず、慰霊碑に向かった。美しい海岸をバックに、小さな地蔵が並んでいた。真冬とは言え時刻が正午に近づき、強烈な陽射しに眩暈がしてくる。 私は、この村に日本から学用品を持参してきた。日本が迷惑をかけたこの地の小学校に、届けようと考えたのである。この日は土曜日、しかも冬休みということで、直接校長先生の自宅を訪問することにした。ビリヤバセントラル小学校の校長カルティト・サンタナさんと、奥さんのルシータさんはとても気さくで、私たちを快く受け入れてくれた。 かつての漁村ビリヤバは、人口2万人の大きな町に変貌していた。困ってしまったのは、 町なかの食堂で昼食をとったのち、もうひとつの慰霊碑に向かった。海岸沿いに、日本フィリピン合同の慰霊碑が建っている。横浜の梶尾茂さんによると、この地点に転進してきた第1師団の司令部が置かれたという。この慰霊碑から、西を見るとセブ島が見える。セブ島まで50キロといわれているが、肉眼で見えるのであるからもっと距離がないように感じた。 この慰霊碑を見ると、現地のフィリピンの犠牲を忘れては成らない。多くの現地フィリピン人が、理不尽な日本兵の虐待を受けていた。上原富子さんの亡くなったご主人は、当時19歳でこのビリヤバにいたという。 「私の夫の頭骨には、日本の兵士に銃床で殴られて陥没した部分があるんです。その夫の父親にも、同じような傷がありましたよ。だから私の夫は、日本を恨んでいました。なのに日本人である私と結婚し、村に私と四人の子供を連れて帰ったのですから、周りの村人におまえ日本をうらんでいたくせにと随分と冷やかされていましたよ」 奥田覚衛の所属部隊は「比島派遣威10005部隊沖隊」となっている。私はこの沖という人物が、第68旅団歩兵第126連隊の連隊長沖静夫大佐であることを見つけ出した。 第68旅団 第68旅団の正式名は、独立混成第68旅団(星)である。この部隊は、1939年満州公主嶺に創設された「特殊部隊」である。従って、全国から選抜された優秀な兵が集められた。 兵は眼鏡付短小銃、下士官はベルト式自動小銃を、部隊は一式47粍速射砲・百式火炎放射器等、他の部隊にはない近代装備を持っていた。また兵には、防蚊面・手袋など米軍に劣らない装備が与えられていた。兵の階級も一番下が上等兵で、命令は筆記せず全てそらで覚えたという。 太平洋戦線が逼迫してくると、臨時編成の部隊が誕生するが、この「独立混成第68旅団」も、新編成された部隊である。この旅団は、司令部、歩兵第126連隊、旅団砲兵隊を中心に総勢4377名で構成されていた。 昭和19年6月に編成されたこの旅団は、7月3日貨車にすし詰めにされ、釜山まで鉄道で輸送されていった。ここから輸送船3隻で台湾に到着し、基隆から新竹に移って小学校に分宿した。ここで、上陸訓練を実施している。竹の筏に兵器を積み上陸し、海岸で蛸壺を堀りただちに足跡を消すなどの隠密行動の訓練である。当時は、「サイパンへの逆上陸」と兵たちは信じていた。 飛行場が集中しているドラグへの上陸を、当初第35軍は考えていたが、準備がもたつく間に、戦局は大きく動いていく。海岸線を守っていた第16師団を粉砕した米軍は、21日にはタクロバンを25日ブラウエンを制圧してしまった。 こうして米軍に先手を打たれてしまった第35軍鈴木中将は、レイテ決戦作戦を立てる。それは占領されたタクロバンを奪回し、そのまま南下して島全体を奪い返そうという夢のような計画であった。 まず第102師団が北岸を進み、その後方から第1師団が中央からは第26師団が、南部へは第16師団と第30師団が担当するというものである。 そして第68旅団はレイテ北岸に上陸し、第1・102師団を援護するというものであった。しかし、10月末までにレイテに到着していたのは、第102師団だけであった。しかも米軍の進撃は早く、カリガラ平野での激突が予想されるようになってきた。そのカリガラに向かって第1師団が進んだが、その前にリモン峠で米軍と衝突し死闘を繰り広げることになる。 到着は大幅に遅れ、11月23日にようやくマニラに集結している。マニラを出港した輸送船4隻は、第35軍司令部のあるオルモックを目指したが、情勢に大きな変化が起こった。なんとオルモック南に、米軍1万の大軍が上陸してきたのである。 オルモックの日本軍は、狼狽した。ブラウエンの前線に部隊の大半を送り出していたオルモックは、たちまち米軍に制圧された。この知らせ受けた船団は、西岸のサンイシドロに上陸地点を変更する。 12月7日正午、米軍機の攻撃を受けながら輸送船は次々と砂浜の乗り上げた。乗り上げた輸送船は燃え上がり、装備の相当数が燃えてしまった。しかし、着のみ着のままで上陸したという訳ではなかった。上陸した装備には、十榴3門、野砲1門、連隊砲2門、ロケット砲まであった。日本は手持ちの精鋭部隊と新兵器の全てを、レイテ島に投入したわけである。 上陸した5千の兵は、歯まで偽装を施した「特殊部隊」の精鋭であった。当初これを知った米軍は、恐怖感を覚えた。 第1師団が苦闘しているリモン峠に、援軍として向かうことになった。しかし、問題が発生した。やはり牽引車両をもたなかったため重砲の運搬が出来ず、折角揚陸した砲を、その場に放置することになった。 この後のレイテの戦場は、掃討戦となって、7月20日頃には旅団の消息は完全に途絶えいく。兵達は、遊兵となってジャングルをさ迷って消えていった。 戦後(1950年頃)にも、レイテでは日本兵があちこちで生き残っていた。その中に、少将クラスを長とした戦意旺盛なゲリラ集団がいたと地元紙は報じている。当時この地区の少将級で消息が分からない人物が、旅団長の来栖少将である。このゲリラ部隊の指揮官は、来栖少将だという説がある。とにかく、68旅団の全体像はなかなか分かっていない。ある記録では6392名の将兵のうち、6302名が戦死とされている。 私はこの第68旅団で戦死した遺族の一人とお会いできた。 藤田篤は、出征前は 「兄は体格もよくて、元気者でした」邦夫。なるほど、特殊部隊向きの条件を備えていた。 遺書 まさに、息を飲むような内容であった。文の最後に大きく書かれた「滅死奉公」の文字はいったい何なのであろうか。「滅私」ではなく、「滅死」とは? 京都の部隊と言えば、ほぼ全滅した第16師団ということになる。いつどうして第16師団に配属になったかは、今になってはなにも分からない。 そして昭和15年、21歳になった正一は出征した。 「私は当時、寄宿舎生活をして帯広の高等女学校に行っていました。ある日、兄から学校に電話がきたんです。夜、兄が里帰りの途中に寄った帯広駅近くの出雲屋旅館に面会に行きました。兄と、その戦友の釧路の方がいました。兄が席を立った時、その釧路の方が私に耳打ちしたんです。 いいかい、これから聞く事は絶対に誰にも話してはいけないよ。 |
BEFORE〈〈 〉〉NEXT |