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      カンギポット山                                              
                        レイテ島の戦いⅢ


 
フィリピン Republic of the Philippines                         
     
 
       
         〈リモン峠を行く路線バス〉

  
         
 (カンギポット山が見えてきた〉

  
             〈森谷義雄さん〉

 
         (カンギポット山の麓での供物〉    
  
 
私たちはリモン南峠を越え、カナンガの集落から右折しカンギポット山に向かった。周囲には水田が広がっている。カンギポット山の山頂がすぐそこに見える地点に、多くの慰霊碑が立っていた。テレビでしか見たことのなかった本当のカンギポット山が、聳えている。

多くの慰霊碑が並び、亡くなった兵士たちは私たち日本人の訪問を待っているに違いない。無念の思いの中で、若くして死した彼等に私たちは何度も手を合わせた。カンギポット山にまつわる人物を、もう一方紹介したい。

北海道帯広市在住の森谷悦子さんの父森谷義雄も、昭和20317日にカンギポット山で戦死と報告されている。彼は四人の子供を残し、カンギポット山に露と消えてしまった。森谷悦子さんは、昭和16年生まれであるから、

「父の背中におんぶされたことを、うっすらと覚えているんです」
 父森谷義雄は、独立自動車第316中隊に所属していた。この部隊は、第35軍司令部直轄の部隊で、トラックなどで物資の輸送にあたっていた。森谷義雄は明治41年生まれであるから、戦死した時は満37歳前後である。  109名で編成されたこの中隊は、昭和1984日ころにレイテ島に移動していたようで、第16師団の元で活動をしている。リモン峠の戦いののち、カンギポット山へ移動し、翌年2月ころにはカンギポット山に移動したようだ。     

しかし、3月には完全に消息がたたれている。とにかく、37歳という兵士としては高齢な森谷義雄である、日本に残した妻子をどんなに思っていたことであろう。私のレイテ訪問を聞き、「やっと、光が見えてきたような思いです」という悦子さんの言葉が印象的であった。

ガイドをお願いした上原富子さんによると、
「遺骨を集めている人がおります。アントニオさんです。来月、日本政府の人々が来ます。その時に手渡す遺骨を集めているんですよ」

私は、是非それを見てみたいと思った。60年を経た現在も採取できる事実にも、驚かされる。カンギポット山の中腹に住居を構えるアントニオさんが見せてくれたものは、遺骨だけではなかった。兵士の、ヘルメットや眼鏡もあった。そして、遺骨の頭骸骨には歯がしっかりと残っていた。私は正直強い衝撃を受けた。

「この辺りで写真を撮ると、写真の片隅によく亡くなった方の姿が写っているんですよ。日本の兵隊さんだけでなく、アメリカの兵隊さんの姿が写っていることもあるんです」富子

なるほど、頷ける話であった。無念の思いで亡くなった多くの兵士の霊と魂が、確実にいるはずである。カンギポット山の名称については、「ブカブカ山」というのが本来のもので、元来「カンギポット山」は別の近隣の山を指す。従って私たちの呼ぶ「カンギポット山」は、現地では現在も「ブカブカ山」と記載されそう呼ばれていた。

道路標識などにも、「ブカブカ山。多くの日本の戦死が眠っている」と案内されていた。私達の車は、そのカンギポット山を下った。レイテ島の西海岸に出る。ビリヤバの町が見えてきた。

「ビリヤバ」この町の名を知ったのは、僅か二か月前のことである。その時までまさか私自身の中に、この「ビリヤバ」の血が流れているとは考えもしなかった

           
      
                        (カンギポット山の麓にある多くの慰霊碑〉    

          

    

    
           (アントニオさんと彼が集めた日本兵の遺骨の数に圧倒される。   周辺には多くの慰霊碑がある〉

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