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    オルモックとリモン峠                                              
                        レイテ島の戦いⅡ


  
フィリピン Republic of the Philippines                         
    
  
                  (レモン峠からカンギポット山を見る。眼下の密林地帯を日本兵は進んだ.右は古澤さん〉       

 
     
     〈第一師団に所属していた古澤義徳さん〉

         

        (第一師団の生き残り梶尾茂さん〉

 
          〈オルモック湾。静かな朝〉

 
   (山側は山脈が迫る。米軍は山越えの砲撃を繰り返した〉  
  
 
            
 〈オルモックの北西側〉

  

        〈リモン峠の第一師団の慰霊碑〉

   
     
  〈リモン峠  直ぐに子供が集まる。〉
  
  


 
         〈血の川と呼ばれるリモン川〉
      
  
 「リモン峠」とは、先に紹介した第1師団が死闘を繰返したレイテ島北端にあるなだらかな峠の名である。そしてカンギポット山とは、日本軍1万が立てこもり全滅した魔の山である。この山は標高は低いが山頂部分に鋭い岩石が露出し、遠方からもすぐに確認できる。

レイテ島で亡くなった8万人を地域ごとに見ると、タクロバン2万人、オルモック地区6万人と大別できる。オルモック地区を更に分類していくと、リモン峠7500名、オルモック12千となる。この狭い地域に計2万もの死者を出していることに驚かされる。死体の山だったのであろう。

古澤寛美(ひろみ)さんは、北海道本別町におすまいである。
「私の兄古澤義徳(よしのり)は、第一師団の通信隊に所属していて、昭和二〇年七月一日に戦死したことになっています」

なぜ、東京の第一師団に?古澤家は、明治38年現在の山梨県韮崎市から入植した開拓農家で、古澤義徳は、寛美さんの4歳上の大正9年に生まれている。
「兄はね、とても几帳面でした。小学校も皆勤でしたし、青年学校に行きながら農業を手伝っていました。農業の仕事も、とても熱心でしたよ」
 義徳は、神奈川県の陸軍兵器学校電工科に進んだあと、満州孫呉の六二八部隊に送られている。
「そのあとフィリピンに行ったこともレイテ島に行ったことも、全く分かりませんでした。昭和22年に戦死公報がきて分かったんです。結局兄の消息については、今も詳しいことは何もわかりません。 戦争は酷いものですよ。私の集落ではね、召集令状が来る前にまとめて送別会をしていたんですよ。私の送別会もね。そんなことってありますか」古沢寛美

第一師団

第一師団が駐屯していたのは満州最奥地の黒河省孫呉であるが、昭和198月に片岡薫師団長が着任し、820日からこの地を出発し南に向かった。フィリピン決戦が迫り、満州の部隊が次々に南方に送られていった。
 兵隊を乗せた列車は密封され、中国大陸を縦断していった。乗船する上海では300名が入院し、過酷な「輸送」だったことが分かる。

1023日フィリピン台湾間のバシー海峡を渡り、27日マニラ港に入る。31日にマニラを出航、翌日11月一1にレイテ島オルモックに奇跡の上陸をしていく。
 輸送船は4隻であった。金華丸に司令部などの3833名、香椎丸に2828名、能登丸に2365名、高津丸に2463名の合計11489名となっている。

私は金華丸に乗船してオルモックに上陸し、激戦ののち生還した元第一師団の兵士梶尾茂さんを、横浜市の自宅に訪問した。
「金華丸はね、兵隊がすし詰めなんですよ。私はね、馬をつれていたので馬小屋に一緒に寝ていましたからかえって広々していたね。馬は飼い主を決して蹴ったりしないんです。上陸後能登丸が撃沈されるのを、見ていました。砲弾を積んでいたんだね。誘爆して、兵隊が吹き飛ばされているのが見えました」

梶尾茂は、大正10年東京都に生まれている。生家は戦車の部品等を作っていた。中学校を中退したあと、中国の青島・大連の民間企業に勤務していた。昭和17年近衛騎兵連隊に入隊し、皇居の警備等にあたっていた後第一師団に転属になり、満州の孫呉に向かうことになる。
 とにかく、第一師団とともに梶尾茂と古澤義徳はオルモッに上陸した。
「オルモック」、この地名は大岡昇平の「野火」の中にも数多く登場する悲しい地名である。

  オルモックへ

私がセブ島から高速船に乗り、このオルモックに上陸したのは200412日の午後であった。現在は人口数万人の都市であるが、当時はわずか100戸あまりの集落で、第一師団の上陸を見て住民はたちまち姿を消した。
 私がオルモックに着き直ぐに目をやったのは、町の裏側に連なる「脊梁(せきりょう)山脈」である。南北に連なる標高1400メートルの山脈であるが、この山脈の向こうから、米軍は遠距離砲を数限りなくこの町に撃ち込んだ。制空権を奪ったアメリカ軍は、偵察機を自由自在に飛ばして的確な弾道を指示した。この猛烈な砲撃こそ、日本軍にとって最大の恐怖であった。梶尾茂も、113日に最初の砲撃を受けた。

オルモックの町は、どこにでもあるのどかで素朴な町である。町並みは比較的新しい。なぜなら、1995年に大水害の被害を受けてなんと7千名の犠牲者をだしているからだ。
「竜巻が湖の水を吸い上げ、更に津波も加わって一気に町が流されてしまったんですよ」上原富子

 梶尾茂が所属していたのは、師団司令部の兵器部であった。
「弾薬運びと、斥候ばかりさせられていましたよ」梶尾茂
 そして古澤義徳が所属したのは、司令部通信隊(300)である。通信隊は有線と無線小隊に分かれていたが、彼がどちらに所属していたかも分からない。

リモン峠

そして第一師団はリモン峠に北上し、アメリカとの激戦を迎える。
「幅三メートルほどの道でね、所々簡易舗装されていましたよ。山の中で出会う住民たちは、私たちの姿を見ると飛んで逃げていきましたよ」梶尾茂

私は、リモン峠の山頂にある第一師団の慰霊碑を訪問した。このあたりで歩兵第57連隊2500名が、峠を登ってくる米軍を迎え撃ったことになる。1944119日からレイテ島は雨季に入り、連日雨にも悩まされていた事だろう。ここで兵士は泥の中に眠り、泥の中で戦った。

私は慰霊碑に、日本から持ち寄った餅・日本酒・きびだんごを供えた。第一師団慰霊碑の隣には、第16師団の慰霊碑があるが損傷が大きい。
「山下財宝を求めて、地元の人が掘り返したりしているんです。向こうを見てください。カンギポット山が見えますよ。あれですよ」上原富子。
 
 それは、壮大なそして悲しい風景だった。穏やかな丘陵地帯が広がりその向こうに、鋭くとがったカンギポット山が見える。眼下の丘陵地帯には、万を越える兵士たちが眠っているはずだ。何のための死だったのだろうか。
 リモン峠には、リモンの集落の南北に「北峠」と「南峠」の二つがあり、この「北峠」のほうが急坂になっている。

北峠を下ると、野砲兵第一連隊1900(セブ転進は僅か4)の慰霊碑がある。この連隊は36門の砲を持っていたが、砲弾も不足していた。1113日から砲撃を開始したが、それは微々たるものであった。  

日本軍に偵察機はなく、正確な砲撃など出来るはずもなかった。日中は、米軍偵察機が上空に遊弋している。発見されれば、砲撃を受け全滅を意味する。偵察機のいない僅かな時間をみては砲撃し、偵察機が近づくと偽装網をかけなければならなかった。

「一発撃つとね、アメリカから200発くらい返って来たんですよ」梶尾茂。片岡師団長の手記にも、「米軍は機関銃のように砲撃してくる」と記されている。
 慰霊碑の近くには、ジャックフルーツなどの果物がたわわに稔っていた。元来、レイテ島は南国の楽園だったはずである。
 さらにオルモック街道を南に行くと「工兵碑」が立っている。
 これは、工兵第一連隊690(全員戦死)の慰霊碑である。この部隊は、軍用道路を作る部隊である。脊梁山脈を越えて進撃するための道を切り開く作業や、オルモック街道を確保する作業にあたっていた。しかし後方支援部隊であるにもかかわらず、この部隊は全員戦死とされている。なんたることか。

私達の車はリモンの集落を抜けて、南峠に差し掛かる前に河をわたる。川の名はリモン川であるが、
「血の川と呼ばれています。兵士の流れ出る血で赤く染まったからです」富子
 私にとって、ここがもっとも印象が深かった。南国ののどかな風景が広がっていたが、ここで夥しい数の兵士が倒れた。私は車を止めてもらい、一人で河岸におりた。水牛が川の中で体を冷やしている。村人が、ヤスや網を手に川魚を必死で採っている。河岸を掘り起こすと、兵士の遺骨がいくらでも出てくるに違いない。

古澤義徳の通信隊は、その後どうなったのだろうか。
 1128日には、「通信隊、各隊との連絡不能」という記録が残っている。通信隊は、有線つまり電話と無線に分かれている。有線の方は、米軍の砲撃で断線され用をなさなかった。無線の方は、連日の雨で電池が湿って使用できなくなった。術を失った通信隊の兵士は、伝令として自分の足で走っていたに違いない。

レイテ島には台風はこないが、雨季はルソン島と違い12月から始まる。私が訪問する10日ほど前の200312月末にも、レイテ島は大雨に見舞われ、島南部で109名が土砂崩れで死亡している。きっと、この時も激しい雨が降っていたに違いない。南国とは言え、雨は食料不足の兵士たちから確実に体温を奪っていった。

昭和191221日から、第一師団はリモン峠からの撤退を開始した。ジャングルの、道亡き道を兵士たちは進んだ。そして昭和2011日ころに、かろうじて生き残った将兵がカンギポット山に集結している。武器も不足し、小銃でさえ三人に一丁という有様であった。私たちは、そのカンギポット山を目指した。

           
   
                  〈リモン峠には多くの慰霊碑がある。右は工兵碑 2004 1 03〉

   
                                〈1967年頃のリモン峠〉

        
                                             〈オルモックの港で〉
  
                        〈現在のオルモックの港  2004 1〉

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