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    マッカーサーとレイテ島                                              
                          レイテ島の戦いⅠ


  
フィリピン Republic of the Philippines                         
    
  
                   (マッカーサーランディングパークでは上陸シーンが再現されている。 2004 1 03〉       

   
     
      〈フィリピン上陸を主張するマッカーサー〉

 

     (この会談でルーズベルトと取引ガムなされた〉

    
           〈タクロバン市内にある像〉

        

       
            (当時の首相は小磯国昭〉  
  
       
           
 〈タクロバン市内の慰霊碑

 )


 
         〈タクロバン市内の子供たち〉

        

      
                 
          〈案内をお願いした上原さん〉
  
 こうして、フィリピン人の心は完全に日本に背を向けていった。アメリカがフィリピン奪回のために、まず作戦を展開していくのがレイテ島である。

レイテ島は太平洋戦争最大の決戦場となり、流血の島・殺戮の島となった。送り込まれた84千名のうち、81500名の日本兵が戦死した。戦死率97パーセントは、どの地域よりも高い。

レイテ島は、当時の人口約100万人(現在180)、面積は四国の半分程度である。島の中央には標高1400メートルほどの脊梁山脈が連なり、マゼランがフィリピンに姿を現したのは、このレイテ湾が最初であった。レイテ島にある「カンギポット山」は、標高350メートル足らずであるが、日本軍1万が立てこもり全滅した山として有名である。

レイテ州の州都は、北部にあるタクロバンである。この島におかれていた唯一の師団が第16師団で、司令部もこのタクロバンにおかれていた。この師団は、京都を母体とし「南京事件」で有名になるが、この島で99パーセントが死亡した師団である。のちに送り込まれた第1師団も13千の兵士のうち、生き残ったのは1千名といわれている。

本当に、こんな惨劇がこの島で繰り広げられていたのだろうか。私は、フィリピン戦の遺族会「曙光会」の北海道地区代表伊藤俊次さんに連絡をとった。

「レイテ島で生き残った兵士は、わずか800名程度らしいです。その800名もセブ島などに渡ったのち、300名が戦死したようです。 私の調査した青森県の場合は、第5連隊2400名がレイテ島に渡ったのですが、生きて故郷に戻ったのは9名です。

北海道では、ただの一人も確認できていないんですよ」私は、この内容に言葉を失った。
「実は私の父も、当初カンギポット山で亡くなったことになっていたんですが、私はどうしても信じることが出来ず、自分で捜したんです。どうやらレイテ島ではなく、ルソン島で亡くなったようです。でも、それも確認できていないんです。なにせ、生きて帰ってきた兵士が殆どいなかったんですから」

ではなぜ、レイテ島が決戦の場となったのであろうか? この島の平原に日本は五つの飛行場を建設したが、米軍はこれを占領しルソン島攻略の基地にしたいと考えた。レイテからマニラまで、560キロの距離がある。

しかし、はじめからレイテ上陸を計画していたわけではない。そもそも、フィリピン奪回そのものも直前に決定されたものである。アメリカは、日本を降伏に追い込むプランとして、ニューギニア・サイパン攻略の後、台湾あるいはフィリピンを候補としていた。海軍はフィリピンを飛び越して台湾を主張していたが、陸軍のマッカーサーはフィリピン奪回にこだわった。

彼は、フィリピン人への道義的理由を掲げ、
「アメリカに忠実なフィリピン人が、日本軍に捕らえられている。フィリピンを解放する道義的責任と、アメリカの威信がかかっている」と主張した。ハワイで彼はルーズベルトと会談し、ここで取引がされたと言われている。マッカーサーが次の大統領選挙に出ない代わりに、再選を狙うルーズベルトがマッカーサーのフィリピン奪回案に賛成したというものである。

マッカーサーは、当時アメリカ国民に人気が高かった。彼は1880年に生まれ、陸軍士官学校ウエストポイントを主席で卒業、50歳で史上最年少の参謀総長就任という輝かしい経歴を持っていた。

父親の関係でフィリピン財閥とも深く結びつき、フィリピン経済界のひとりとなっていた。彼はこれらの理由でフィリピンに戻りたかったのである。
 では、フィリピンのどこヘ?ミンダナオ島・レイテ島・ルソン島の三つがあげられていたが、当初予定されていたのがミンダナオ島であり、日本もここを予想していた。

しかしレイテ島の日本軍が手薄なことが判明し、レイテ島に変更となって時期も12月から10月に早められた。既に日本はアメリカへの勝利を諦め、一度大きな打撃を与えその時に有利な条件で講和しようと考え始めていた。さらにフィリピンを、本土決戦への「時間稼ぎ」「捨石作戦」に使用することを決定していた。

194410月、フィリピン決戦の切り札として山下奉文大将が第14方面軍司令官に着任した。風貌とは違い沈着冷静な「マレーの虎」の登場は、遅すぎた。

その僅か二週間後に、レイテへの上陸が始まったのだから。更に米軍に対する判断を、着任したばかりの山下奉文は誤ってしまった。その理由は、あの194410月の「台湾沖航空戦の大誤報」である。全くありえない「10隻以上のアメリカ空母撃沈」の大誤報によって、その直後東京で小磯国昭首相は「台湾沖航空戦」の祝賀会まで開いてしまった。

その愚かな祝賀会の当日1020日、700隻の艦艇と20万の兵士がレイテ島に殺到し、1日目だけで6万人が上陸してきた。
 レイテの守備隊は、当時第16師団の2万人だけであった。山下奉文は台湾沖航空戦の大誤報を信じて、決戦場をルソン島からレイテ島へと切り替えてしまっていた。

「レイテで、アメリカを叩くことができると」アメリカの戦力を2個師団と勝手に解釈し、小出しに部隊を送り込んで結果的には全ての部隊が壊滅していった。マッカーサーの宣伝工作も、巧みであった。

「アイ ハドゥ リターンドゥ(私は帰ってきた)」の名演説は、すぐにフィリピン国民の心を捉えた。
 私が、マッカーサーの上陸地点レイテ島パロにある「マッカーサーランディングパーク」を訪問したのは、200413日の午後であった。真冬にも拘わらず、強烈な太陽が降り注いでいた。公園は予想以上に整備され、多くの訪問客で賑わっていた。

ここの海岸が、米軍が上陸してきたレッドビーチである。桁外れの大群で米軍が押し寄せてきたわけだが、となりのサマール島が意外な近距離ですぐそばに見える。そこには、上陸してくるマッカーサーと取り巻きの側近たちの像がある。マッカーサーを先頭に、亡命政権の大統領オスメニア・閣僚のカルロス・ロムロが続いている。

ガイドをお願いした富子ベロズサ(上原富子)さんによると、
「以前、マッカーサーの左肩が何者かに壊されて、修理したことがあったんですよ。それから19941020日の五〇周年記念式典は、盛大でした」

この日、5千名の兵士が参加して米軍の上陸作戦を再現するなど盛大な記念式典が開催されている。州都タクロバンは、アメリカ軍に早々に占領され日本軍は夜間の斬り込み攻撃を繰返した町である。海岸にも、日本軍の慰霊碑が複数あり心を痛める。

私は、この町に3年在住している明平秀一さんを訪問した。タクロバン郊外の住宅地に居を構え、私たちはゆったりとしたその南国の暮らしに魅了されると同時に、すっかり世話になってしまった。

アメリカ軍上陸後の、レイテ島の話に戻ろう。その後多くのフィリピン人が、マッカーサーの目となり耳となるゲリラとして日本軍と戦った。彼等は「ベテランズ・フェデレーション・オブ・ザ・フィリピンズ」と呼ばれ、現在も国民の英雄である。

16師団にはフィリピン人ゲリラが張り付き、常に監視していた。日本軍には、現地住民の協力はなく決戦準備もまったく出来ていなかった。

日本軍は、レイテ島で「檻の中」に入れられたも同然であった。レイテ沖海戦などで海岸に流れついた多くの日本軍兵士は、住民に直ちに殴り殺された。手足を切り取られた日本軍兵士も、多かったという。日本軍のひとりひとりが、住民の憎しみをうけ無謀な国策のつけを払わされ殺されたわけである。

  日本軍の反撃 

昭和19111日のちにリモン峠で壊滅していく第1師団(東京13千名)が、奇跡的にオルモック海岸に上陸した。  

1師団の輸送船4隻は、殆ど損傷を受けずに上陸したが、115日から第26師団(名古屋)がオルモックに上陸したときは、1万の人員だけが上陸できただけで、武器食料の殆どは輸送船とともに沈められてしまった。この師団は、丸裸で上陸したのである。

台湾からの第68旅団も同じ運命にあった。その後セブ島から第102師団、ミンダナオから第30師団、ルソン島から第8師団が増援され人員は8万人を数えたが、物資の陸揚げは殆どできていない。

1師団は二・二六事件に関わった多くの兵を抱えていたため、満州最奥の黒河にいわば左遷された師団である。レイテの難所「リモン峠」では、この第1師団とアメリカ第24師団(ハワイ)が対決した。日本軍は、50日間持ちこたえたといわれている。
 先の第26師団もオルモックに上陸したが、12千名のうち生き残ったのは23名という驚くべき数字が残っている。

そして何と米軍は、127日からそのオルモックに逆上陸してきた。日本軍は反撃どころではなく、11日にはオルモックは米軍に奪還された。
 1219日レイテの残存部隊は「カンギポット山」に集結し、持久戦の態勢に移っていく。約2万の兵士を残し、この日大本営はレイテ決戦を放棄した。 こうなれば、部隊ごとに降伏するのが一般的であるが、日本軍に「降伏」の文字はなかった。ガダルカナルであれば、駆逐艦による撤退作戦が実行されたが、既に100隻あった駆逐艦は当時40隻になり、撤退も不可能であった。

35軍は標高359メートルの「カンギポット山」に全軍の集結をして、最後の坑戦を考えていく。実際に「観喜峰」と名づけられたカンギポット山に集結した日本兵は、約4千と言われている。

ここに来て組織的な日本軍の行動は終わり、補給のない生き残りが繰り広げられることになった。飢餓・マラリア・アメーバ赤痢に苦しみながら「観喜峰」と名づけられたこの山を兵士は目指した。「観喜峰」とは、なんと皮肉な命名であろうか。

飢えた日本兵のあるものは、戦死したアメリカ兵の肉を切り取り食べたという。日本兵が日本兵を襲って食べる例も、報告されている。人肉食いをしたものは、肌につやが出て一目で分かった。淡白質を取ったから。なんと、恐ろしい光景であろうか。

現地フィリピン人は、日本兵を捕らえてはアメリカ側に引き渡した。日本兵一人につき、20ペソの償金が出ていたが、容赦なく殺された兵士も多かったようだ。

カンキポット山一帯に残された将兵の、その後の消息は殆ど不明である。不明の兵士の大半は、カンギポット山にて死亡として処理され、日付も昭和2071日あるいは74日にひとまとめにされてしまっている。
「本当に、なにもかも分からないままなんです。私の父も、カンギポット山にて死亡とされていましたから」伊藤俊次

             

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