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     占 領 政 策 の 失 敗                                               
                        日本の支配アメリカの支配


 
 フィリピン Republic of the Philippines                         
 
  
   〈現地で悪評を買った軍票。占領地域で使用された〉

 
           (日本のこのやり方では・・・)

     
             〈ラウレル大統領)

  
              (日本の占領ビラ〉

  
       
 〈地元ではキリスト教が根付いている)
  
  
 日本にとってフィリピンは、「シーレーンの要」であった。日本が目指す「大東亜共栄圏」の建設するにあたって、絶対不可欠なものはインドネシアの石油をはじめとする天然資源であった。それを日本に送り届けるためには、フィリピンは絶対に確保しなければならない地域であった。そのフィリピン確保のための日本の占領政策は、結果的に完全な失敗に終わる事となる。

なぜ同じアジアのフィリピン人に、日本の「占領政策」は受けいれられなかったのであろうか?

一九四二年のフィリピン占領以来、日本はここに軍政を敷いた。軍政は、政府の建てた「大東亜共栄圏構想」にのっとったもので、「フィリピンを、アメリカなどの白人支配から解放する」「アジアのための、アジアを作る」という大儀名文を前面に出していた。

その思想の土台は「八紘一宇 はっこういちう」という、「アジアの国々が、日本を盟主として同じ屋根のもとでひとつの家族になる」という、日本にだけ都合のいい理念によった。こんな難しい言葉は日本人にとっても良くわからないのに、フィリピン人に通じるわけがなかった。

「アジア解放のための戦いだ。日本軍が先頭になって闘うから、フィリピンの人々も協力してくれ」というものである。しかしこれは、その精神的な結びつきの中心を天皇とし、家長が日本でアジアの国が従属する形でしかなかった。

それまでの40年間アメリカ型の民主主義教育を受けたフィリピ人には、「天皇崇拝」など全く受けいれられず無視された。すでに日本はアジアの朝鮮・台湾・満州を完全な植民地として手に入れ、その後4年以上も中国大陸に侵攻している。そんな事実を目にして、「アジア解放のための戦いだ」と言われても、誰も信じるはずがなかったのである。

日本は、「遅れて来た帝国主義者」であった。第一次世界大戦後の世界は「民族自決の原則」が確立し、かつての「帝国主義」など通用するはずがなかったのである。

フィリピン人に全く無視された日本の「軍政」とは、具体的にはどんなものであったのだろうか?特徴的なのは、地域に日本と同じような隣組をつくらせ、住民同士を相互に監視させ密告が奨励された。日本軍への反逆行為は、連帯責任によって無関係な者までが処罰されるか殺されるものであった。19421月の軍命令では、「日本軍人もしくは日本人に危害を加え、若しくわ加えんと企てたるものは射殺すべし」とされていた。

フィリピン人との関係を決定的に悪化させたのは、日本人のフィリピン人への「平手打ち」があげられている。フィリピン人にとって、「平手打ち」は大変な屈辱的行為であった。

更に日本は、フィリピンの文化や習慣を無視し、いたずらに反感を買っていった。西洋とキリスト教文化のフィリピンに、日本軍は時代遅れの「天皇崇拝」を押し付け、生活文化・習慣まで変えることを強要し、その結果反発を招いて、その反発をアメリカに利用されていったのである。

又悪名高い「軍票」を乱発して、フィリピンの貨幣経済を破壊した。その結果物価が100倍になり、円・ドル・金とも交換できない軍票は「おもちゃ」と呼ばれた。

更に、日本軍は住民の食料を巻き上げた。フィリピンの大戦中の犠牲者100万人の大半は、餓死といわれている。苦肉の策として、194310月に日本はフィリピンを形式的に独立させた。そしてホセ・ラウレル新大統領に、アメリカに参戦することを要求した。

これはさすがに無理でその代わりとして、日本は軍事同盟条約を強要した。日本の支配が及んだのは、フィリピン国土のわずか三割と言われている。当時、反日本軍ゲリラの組織は100を越え、計27万人に達していた。

では、反日ゲリラを生んだ精神的土壌とはどんなものであったろうか?国名である「フィリピン」とは、500年前のスペイン国王「フェリッペ」に由来する。つまり、マゼラン世界一周航海の途中彼のセブ島上陸によって、その後400年間のスペイン支配が始まった。

スペインは、その世界戦略もあり「キリスト教」を布教した。その後1898年、米西戦争に勝ったアメリカの植民地になっていく。当初アメリカの支配は高圧的で、フィリピン人数十万人が犠牲となった。

しかし、アメリカの植民地支配は日本と違い巧みであった。アメリカは時代背景を読み取り「軍政」から「民政」に移行し、穏健な政策へと転換していった。そして両国は、フィリピンに恩恵を与えた。スペインはキリスト教を与え、アメリカは教育を与えた。学校制度や民主主義を、フィリピンに普及していった。しかもその教育制度には、日本の遅れた天皇崇拝・天皇制国家とは違い、遥かに進んだ「民主主義」と「自由」があった。

アメリカを追い出し「遅れてきた帝国主義者日本人」は、フィリピン人をどう考えていたのであろうか?

「アメリカはフィリピンに贅沢な享楽主義を与え、東洋への愛情を忘れさせフィリピン人の魂を奪った。フィリピン人のその腑がいなさを見る時、我々の胸には悲しみと怒りが湧き上がってくる。アメリカの侵略勢力を追い払い、東洋民族の誇りと喜びを呼び戻す事こそ、日本の使命である」という、誠に身勝手な考えを宣伝した。

日本兵も「フィリピン人は同じアジアのくせに、英語話してキリスト教を信じている。その腐った精神を叩きなおすのが、日本軍の使命だ」と思っていた。

こうして日本は勝手にフィリピン人を愚かな民と見下し、東洋本来の姿に立ち返らせようと、フィリピンの社会や文化にも手を加え、フィリピンの教科書から「自由・民主主義」の言葉を消していった。

結果として、皮肉なことに西洋の植民地となったアジアの国フィリピンは、白人支配からの解放を掲げた同じアジアの国日本の植民地支配には抵抗していく。しかも、1934年にアメリカはすでにフィリピンに、1946年の独立を約束していた。こうして経済的支配は継続しても、「民族自立の原則」を守るアメリカの政策は、フィリピン人の心をつかんでいたのである。

     
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