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   バターン半島と「死の行進」                            


  
フィリピン Republic of the Philippines                         
    
   
                                                            
   
     
   
      
              〈Aさん)

  
            (デスマーチ22キロ地点)

 
          〈サマット山が見えてきた)

  
      

 
       (サマット山からコレヒドール方向を見る)  
  
  
           
 〈地元ラマオの人々と)
  
「フィリピン」という響きは暗くて重い。南海の楽園であるはずなのに、暗い影がつきまとう。第二次世界大戦の日本人兵士の戦死者数は、計240万人とされている。そのうち、フィリピンでの死者は実に50万人である。太平洋戦争の四分の一を占め、地域別では最大のものであった。現地のフィリピン人も、110万人が犠牲になっている。
「これほどの数字は、いったいなんなのだろう?」誰もが抱く、素朴な疑問である。

太平洋戦争中、フィリピンではいったい何が起こっていたのだろうか? なぜ、これほどの兵士と住民が犠牲にならなければならなかったのだろうか? 私の気持ちと体は、フィリピンに向かった。

1941128日真珠湾攻撃の朝、日本軍は当時のフィリピン米軍の拠点マニラ近郊のクラークフィールド基地を空襲した。当時の極東フィリピン陸軍司令官マッカーサーは、この日本の攻撃をあまく見ていた。

「連絡のあった真珠湾攻撃も、どうせ失敗だろう」とたかをくくり、台湾の日本軍航空隊の存在も無視していた。8日早朝、台湾の陸海航空隊500機はルソン島にむけて出撃した。ルソン島のクラークフィールド基地を壊滅させ、この第一撃で勝敗は一挙に決してしまったのである。

日本軍が開戦初頭に考えたフィリピン作戦は、主に首都マニラとミンダナオ島ダバオの占領であった。先部隊がルソン島に上陸したのち、第14軍主力6万が1222リンガエン湾に、第16師団は南部のラモン湾に上陸した。

現在北海道帯広市に在住のAさんは、ルソン島リンガエン湾に上陸した兵士のひとりである。大正5年に小樽市に生まれている。

上陸後日本軍はそのまま南下し、首都マニラを目差した。住民たちはいち早く避難し、途中の村々は空であった。日本軍を喜んで先導するフィリピン人がいた。「カナップ党員」である。彼等は、それまでのアメリカの植民地支配に対抗していた。彼等はその後日本軍に協力したが、最終的には日本軍の敗北とともに戦後悲劇を向かえることになる。 

1223日、マッカーサーは全軍をバターン半島に撤退させた。司令部を、コレヒドール島マリンタ要塞に移したころ、日本軍は南北からマニラに進撃し、12日に占領している。旭川第7師団の騎兵に配属ざれていたAさんも、マニラに入城した。

「兵士と馬は同時に上陸したわけじゃなくて、馬は後から上陸してきたよ」11日のこの日、
「私は必ず帰ってくる。アイ シャル リターン」の言葉を残し、マッカーサーは魚雷艇でミンダナオ島へ脱出した。

バターン半島作戦

当時日本軍の主眼はマニラにあり、バターン半島には興味がなかった。敗退したアメリカ軍など、簡単に撃破できると考えていたのである。しかし長さ50キロ幅30キロのバターン半島での戦線は膠着した。Aさんはバターン半島では、機関銃部隊に配属されている。

「重機関銃を、撃ちまくりましたよ」米軍は日本軍に包囲され、そのまま封鎖を続けていれば遠からず自滅することは確実であった。
 43日に、バターン半島への第2次総攻撃が開始された。9日夜第4師団と第16師団が半島南端のマリベレスに突入し、組織的な抵抗は終わった。取り残されたアメリカとフィリピンの将兵たちには、あの「バターン死の行進(デスマーチ)が、待っていた。

49日から、27日のことである。「日本軍捕虜虐待」の代名詞となった「死の行進」では、捕虜数万人が死亡したとされているが、正確な数字はわからない。ただ、そのうち九割が実は現地のフィリピン人であった。捕虜になる事を禁じられていた日本兵には、いとも簡単に「捕虜」となった夥しい数の連合軍兵士の気持が理解できなかった。「ハロー」の笑顔で出てくる兵士や、下ろしたてのパリパリの制服の将校がいたという。

歩けないものは日本兵にピストルで撃たれ、食料も水も不足していた。水を飲もうとして、銃剣で刺し殺された兵士もいた。捕虜にゴボウを食べさせたことも、「木の根を食べさせた」と誤解され世界に宣伝されていった。Aさんも、後方へ捕虜を送る任務にあたっていた。

「落伍する捕虜を日本軍は、電信柱に見せしめのように縛りつけたようです。強い陽射しに白人の捕虜の皮膚はあっという間に赤く腫れ上がり、直ぐに死んでしまったと聞いています」

 私がバターン半島を訪問したのは、200416日のことである。マニラから高速船に乗り1時間、降伏交渉が行われたラマオの港についた。ここから、「死の行進」の出発点マリベレスまでは20キロ以上ある。

私は、激戦地だったサマット山(553メートル)を目指すことにした。オートバイに客席をつけた「トライシクル」に乗り風を切って暫く進むと、道端に「死の行進」の記念碑が現れた。町を出ると直ぐに、「21キロ地点」「22キロ地点」が次々に現れた。
 何と一キロごとに、記念碑が建てられていた。当時とは勿論道がかわっているが、できる範囲で忠実に再現されていた。

死の行進

「バターン死の行進」に、話を戻そう。移送手段が「徒歩」が一般的な日本軍と、「車両」が一般的な米軍との認識の差は問題を大きくした。
 捕虜に対する日米軍の考え方には、100年の差がある。そもそも人間の尊厳や基本的人権に対する考え方に、大きな差があるのだから、ここで日本軍にとやかく言っても、しかたがない。日本兵の方が連合軍兵士よりも苦しい行軍を強いられ、多くの日本兵が、
「捕虜の方が、よっぽど楽だ」という印象を、抱いていた。

米兵12千人、フィリピン兵64千人が捕虜となった。日本兵全体の数よりも遙かに多く、籠城生活で栄養失調であったのに加え、多くがマラリア等で極度に衰弱していた。

バターンから鉄道のある北方のサンフェルナンドへ、約60キロの道を炎天下の徒歩行進を強要されたのである。さらに目的地オードンネル収容所に向かって、貨車に詰め込まれて運ばれた。

 戦後東京裁判の証人台に立った生存者によると、行進中日本軍による水・食糧、薬の支給はほとんどなく、得た食糧はフィリピン人が彼らに投げ与えたものか、畑から勝手に取ったサトウキビなどで、水は道路の両側の溝や井戸から取り、その水を飲んだ多くの者が赤痢にかかったという。しかも列を離れ井戸や畑に行った捕虜や、食糧を与えた現地人の中には日本兵によって殺された者もいたと報告されている。

病によって列から遅れたり離れた者は銃剣で刺されたり、殴打され、射殺された者がいたこと。また道路の傍らには死体が転がり、その中には妊娠した女性いたことなどが述べられている。マニラ軍事法廷では、この行進中アメリカ人千名とフィリピン人16千人が、死亡したとされている。

私達のトライシクルは、一時間かけてサマット山の山頂にたどり着いた。山頂には記念館があり、更にその上に高さ90メートルの巨大な十字架の塔が建てられていた。これは1966年、当時のマルコス大統領が建てた「勇者の廟」と呼ばれ、戦争犠牲者とラプラプ王などフィリピン建国の英雄が祭られた建造物である。

バターン戦が終了した194249日を、戦後フィリピン政府は「英雄的行為の日」として、国民の祝日としている。そして毎年ここで、大統領出席の記念行事が行われているようだ。
 エレベーターで塔の上にあがると、絶景が広がっていた。東側に島が見える。米軍が、最後まで立てこもった「コレヒドール島」である。

     
                        

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