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No drill! 演習にあらずⅠ
ハワイ諸島
〈現在のパールハーバー。戦艦ミズーリが横たわる。 2008 8 3〉
(この日のパールハーバー〉
〈艦艇の停泊図〉
〈完全に横転した戦艦オクラホマ〉
〈戦艦オクラホマのメモリアル 429本の慰霊塔が並ぶ〉
〈憧れのまと ワイキキビーチ 2008 8 2〉
〈そしてワイキキの夕陽〉
パールハーバー(真珠湾)への空襲は当時の日本の艦載機の8割が集められ、合計350機(765名)で行われた。第一次攻撃隊には、6隻の空母から183機がオアフ島の真北約360キロの沖合から出撃した。空母「飛龍」からの戦闘機が海に突っ込み、空母「加賀」からの水平爆撃機がエンジントラブルでそれぞれ1機ずつ脱落している。
この183機は12月8日夜明け前の午前1時30分(現地時間12月7日午前6時)に発艦を開始し、上空で全機が揃うまで待機した後、僅か15分後の午前1時45分にはパールハーバーに向け進んだ。夜が明けたのは、6時30分(日本時間午前2時)とされている。
この第一次攻撃隊は、高度3000㍍から3500㍍に展開し、最も上空を護衛の零戦戦闘機43機が位置取りし、眼下の味方の爆撃機の安全飛行と敵機が現れるのを常時見張る体制であった。小型自動車並の800キロという重い魚雷を搭載した水平爆撃機の速度は遅く、従って編隊の速度は125ノット(時速約225キロ)程であった。
第一次攻撃隊は午前7時40分にオアフ島の北端カフクポイント上空に到達し、「攻撃セヨ」の信号弾が淵田攻撃隊長のピストルによって放たれた。
しかしカフクポイントの近くにあるオバナ基地のレーダーは、それ以前に日本軍の編隊をとらえていた。午前7時02分には二人の当番兵が映像を見て、7時06分には陸軍司令部のロッカード中尉に報告している。二人は、7時08分に180キロ先、7時15分には147キロ先に50機以上の編隊がやって来るのを確認した。中尉はこの情報を、当日カリフォルニアからやって来るわずか12機のB17の編隊として、握りつぶしてしまった。
このB17の編隊はヒッカム基地で給油を受けた後、フィリピンに向かう予定であった。到着予定時間が、日本の攻撃時間とほぼ同じであったため途中で日本機に遭遇したが、機銃の弾薬もなく雲の中に逃げ込む以外に方法はなかった。
7時55分日本時間午前3時25分に、攻撃が開始された。もちろん日本軍が最大の攻撃目標にしていたものは、アメリカの空母であった。当時空母と言える代物を日本は8隻保有し、アメリカは6隻保有していた。
この時期太平洋に配備されていたのは「レキシントン」と「エンタープライズ」「サラトガ」の僅か3隻である(大西洋に「レンジャー」「ワスプ」「ホーネット」)。当時の米艦隊は土曜日に出航し、金曜日に帰港するのを通例としていた。しかしこの日、「レキシントン」はハワイから700キロ西のミッドウェーに、「エンタープライズ」はオアフ島西360キロで訓練中、「サラトガ」はサンディエゴで整備中であった。
「エンタープライズ」はパールハーバー攻撃の12月7日の午前7時30分に帰港予定であったが、荒天のため帰港が遅れたという。日本の攻撃を事前に知り、パールハーバーから待避していたかどうかは謎である。空母の代わりに生け贄になったのは、旧式の戦艦8隻である。
アメリカ艦隊に対して決定的な破壊力を持つのは、魚雷攻撃である。船の側面に大穴を開けて海水を注ぎ込み、沈没させるわけである。
日本は40機の雷撃機を準備し、その全てを第一次攻撃隊に集中した。この40機は定められた4方面から各機20秒、距離にして2000㍍の間隔を置いて攻撃態勢に入った。
パールハーバーの水深は、僅か14㍍。攻撃機は高度僅か10㍍からトンボが水面に卵を産み付けるように魚雷を投下し、魚雷は時速70キロあまりで一直線に進んで行く。40機のうち5機は対空砲火等で撃墜されたが、他の35機が停泊している艦艇に魚雷を命中させることは困難ではなかった。
実際に訪問して見ると(2008年8月3・5日)、港のその狭さに気がつく。ぎりぎりの海面面積そして水深の条件の中で、攻撃が行われたことになる。
真珠湾パールハーバーの湾内には、フォード島という飛行場にするにはちょうどよい大きさの島がある。島の大半を飛行場が占め、その他に港湾施設などがある。この島の東側には、戦艦が7隻停泊していた。その脇腹に主に空母「赤城」・「加賀」から24機(それぞれ12機)ずつ)の雷撃機が襲いかかった。北側から戦艦「ネバタ」には1本、戦艦「ウェストバージニア」には6・7本(日本側の発表は9本)、戦艦「オクラホマ」には5本(日本側の発表は12本)、戦艦「カリフォルニア」には3本の魚雷が命中した。このうち戦艦「オクラホマ」「ウェストバージニア」「カリフォルニア」は撃沈され、特に「オクラホマ」は転覆の形になり、多くの乗組員がそのまま艦内に閉じこめられてしまった。
救出のために艦内に酸素を送りながら、船底に穴を開ける作業が続けられ救出のために艦内に酸素を送りながら、船底に穴を開ける作業が続けられ30名ほどが救い出されたが、結果的に429名もの乗組員が酸素を求めながら犠牲となった。その慰霊碑が現在フォード島の東側、展示されている戦艦「ミズーリ」の入口近くにある。
〈ホノルル市内 パンチボールから 2008 8 5〉
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