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パラオ残留日本人孤児Ⅱ                                  


 
 バラオ共和国                                          北海道新聞十勝版にて連載         
      
  
                  〈フユコさんの小さなお店はお客が絶えない 2009 8 12〉
 


 
      (フユコさんのお店 小学校に隣接している〉   

 
        〈かつての新聞記事などをいただいた〉
 


  

 私は、ペリリュー島にもう一人の残留日本人孤児を訪問した。フユコ・ホシイチさん(73)である。

 彼女の話は、私を揺さぶった。英語が混じるものの、感情のこもった日本語だったこともその理由である。
「お父さんは、黒宮一之助といってブリキ屋だったよ。兵隊にとられて、飛行場づくりをさせられたよ。戦争になると清水村に避難小屋を造り、ジャングルでくらしたの。カタツムリや柔らかい木を食べたよ。毒キノコを食べて足がふくれたことあったよ。大きい姉ミヤコ餓死したよ。末の妹も餓死したよ。お父さんも餓死したよ。五人の兄弟と、母が生き残ったよ。私だけ日本に帰るのに体がもたないって、手紙もたされたよ。パラオの父、日本の母に300ドル渡したよ」この具体的な話に、私は言葉がなかった。

 15年後、日本の母がフユコさんを探し手紙を出したが、パラオの養父母はそれを快く思わなかった。
 85年に亡くなった養母が、臨終際フユコさんに語った。「あなたの母黒宮しげ子さん、まだ生きているよ」と。
 その後「キャプテン(大統領)が、直接私を村に探しにきたよ」。日本の実姉兄たちがフユコさんを探し出し、日本との交流も始まった。

「でも今は、姉たちのアドレスも知らないよ」。交流は途絶えてしまった。「一回目の結婚で、七人の子どもいるよ。夫死んだよ。二回目の結婚で84年ペリリューきたよ。その夫2001年に死んだよ」畳み掛けるような彼女の苦難の歴史に、私はただ圧倒された。

「これ、あなたにあげる。私カタカナしか読めないから」突然渡されたものは、実父が所有していた土地貸借証書など戦前の公文書であった。
「これもあげる。これ私の一番大切なものだった。火打ち石だよ。マッチないからこれジャングルで火起こしていたよ」

 私は、突然魂を預けられたようでただ恐縮するばかりで「分かりました。大切に活用します」と答えた。
 日本人にとって、あの戦争は一体何だったのであろうか。そしてパラオの人々にとっても、何だったのであろうか。

       
  〈避難生活のときに使用していた火打ち石もいただいた〉                〈お店で購入したお昼ご飯〉                      
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