HOME>Palau Pelelliu>Palau >Augu〉2009
パラオ残留日本人孤児Ⅰ
バラオ共和国 北海道新聞十勝版にて連載
〈現在のキミコホセイさん〉 〈民宿の前の、ペリリュー島メインストリート〉
(アレックスクルーズさんと〉
〈アレックスのホテル ここに三泊した〉
ちなみに彼は小学校の体育の先生
戦争は終わった。1946年2月、菱岡チカ子さん一家は引き揚げ船に乗り込んだ。「四隻の船団でした。鹿追にある母の実家に、向かったんです。浦賀に着いたんですが、船内には小さな子供は殆ど居なかったと思います。死んでしまったんだと思ったんですよ」
幼い子供たちの多くが栄養失調で死亡したが、たとえ生き残ったとしても帰国を果たせなかった子達も少なくなかった。「パラオ残留日本人孤児」である。多くの子供たちが、現地パラオ人の手に渡った。
その一人に、キミコ・ホセイさん(65)がいらっしゃる。キミコさんは、開拓団の一員として日本から移住した志和はるみさんと、現地で知り合った日本人男性との間に生まれたが、父は戦死した。志和はるみさんは終戦間際にパラオ人夫婦にキミコさんを預け1人で帰国した後、78年に死去した。
キミコさんは2005年に「北海道パラオ友好協会」の招きで肉親を捜すため来日し、DNA鑑定等を経て異父兄の小樽市の男性と対面、更に二年前には母親の墓参を果たしている。
キミコさんは現在ペリリュー島にお住まいで、私はペリリュー島訪問の際に是非訪問しようと計画していた。
しかし、探す必要はなかった。ペリリュー島で三泊した民宿の主人アレックス・クルーズさんは、私に会うなり「私の母は、日本人です」と言い出した。偶然にも、私はキミコさん宅に、お世話になることになったのである。キミコさんは、私に多くを語らなかった。日本語を知らず、ましてや母親の記憶もない。そして現在二人の息子さんと、多くの孫に囲まれていた。彼女にはパラオでの生活があった。
後日キミコ・ホセイさんの実子アレックスさんから私信が送られてきた。「私個人としては、戦争は好きではありません。世界の指導者たちが、戦争を避けるべき知性と文明性を持っていることを信じています。しかしあの戦争があって母キミコがあり、あの戦争がなければ今の私たちが存在しなかったことも事実です」と。