HOME〉Okinawa                                                Okinawa>2005-09



        ひめゆり学徒と宮良ルリさんⅢ
           
                  
    
    
沖縄県糸満市                                                     
        
   
                     〈惨劇のあった伊原第3外科壕 2005 11〉

 

  


  


  
          〈伊原第1外科壕〉


 
  

  
        〈こちらは伊原第3外科壕〉


  
     〈映画の中では沢口靖子が親泊先生を演じる〉


  
        〈海岸を行く 映画の中ののぶ 〉  
  
  
       〈2005 6 には心無い事件があった〉  













      
    
     〈「ひめゆりの塔」は幾度も映画化されている〉 

  

   伊原第三外科壕へ

 その後先発隊がやっとの事で一つの壕を探し当て、ルリたちは現在の「ひめゆりの塔」のたっている第三外科壕に入った。その壕はあたりの住民が避難していたが、軍が使用すると言うことで住民たちは追い出されていた。ルリたちがやってきた時、その住民が移動を強制されている最中であった。

軍は住民から壕を奪い、更に軍同士も壕を奪い合っていた。より階級の高い者がいる部隊が占拠していくという構図が、できあがっていた。たどり着いた壕の中は、板梯子をつたって降りるようになっていた。梯子で降りたところが壕の真ん中になっていて、そこから四方八方にくぼみや横穴があり、ルリたちはそのくぼみの中に身を隠していた。

生徒たちは食料徴発に、毎日のように駆り出された。ルリはある日、陸軍の兵士に連れられたこともあった。海軍の残した食料を、こっそりいただくわけである。
「当時は陸軍と海軍の仲が悪く、見つかったら殺されるぞと念を押されました。それでも乾パンの大きな箱を手に入れ、頭に乗せて来ました」

食糧探しに出ていたある日ルリは、一高女四年の真志喜ツルの家族に出会った。両親が子供四人を引き連れ、鍋や釜を持って疲れきったようすであった。
「伊原に来てから生徒には看護活動はほとんどなかったので、両親が真志喜さんに私たちと一緒に逃げてくれないかと頼んでいました。そのことを真志喜さんが先生を通して鶴岡診療主任に告げたところ、宮崎婦長がかんかんに怒って、全員のいる前に真志喜さんを呼び出しました。 何を言っているか。ここは戦場だ。支那大陸だったらどうする。大陸で戦っている人が、親と一緒になれるか。私たちは沖縄を守りにきているのに、沖縄人であるあなた方が逃げるとはどういうことかと絶叫して、さんざんど怒鳴り散らしました。

 真志喜さんは、泣く泣く家族と別れました。真志喜さんの家族は壕を見つけることもできず、近くの囲いだけが焼け残っていて、そばに木が一本立っているだけの山中小屋を、お金を出して借りて隠れたのです。少しでも砲弾から身を隠すことができればと、思ったのでしょう。 私たちと別れて4、5時間たったころでした。第三外科壕に真志喜さんの弟2人(三、四歳と六、七歳)が泣きわめきながらやってきました。姉さん、お父さん、お母さんが 生徒のみんなは、「ええっ」と言って、すっ飛んで行きました。近くに爆弾が落ち、爆風でふき飛んできた粟石に両親はおしつぶされて即死したのです。
 あまりにも悲惨な惨状を見て、私たちは途方にくれてしまいました。両親にとりすがって泣いていた真志喜さんの姿が、今なお目の前に浮かんできて私を苦しめます。
 真志喜さん、あなたは残された二人の弟の面倒を見なければいけないからねと全員で相談して、真志喜さんを逃しました。その途中、真志喜さんは弾に当たって亡くなりました。戦後、2人の弟は孤児院で生活しているという噂を聞いたのですが、確かな消息はわかりません」

首里が落ち、南部へ逃れてきた住民は、年寄りや子供を引き連れ、煮炊きのための鍋釜を持ち、鉄の暴風の砲弾から少しでも身を隠せる所を探し歩いていた。母親は死んでいるのにおぶさっている子供は生きている情景、血だらけになって死んでいる子供をおぶった母親、それらはまさに地獄絵そのものであった。
「やっと壕の中に入れても、子供が泣くと米軍にさとられるから出て行けと言われて、おろおろうろたえながら、嵐の吹き荒ぶような弾の飛びかう中にすごすごと出ていく母親、それはおよそ人間のすることとは思えず、人間が人間でなくなってしまったのです」


 さまよえる航空少年兵

 八重山中学3年生に、通事正浩という男子生徒がいた。彼は、ルリと同じ石垣島の小学校出身であった。彼は少年航空兵に合格し、土浦に入隊することになっていた。しかし、石垣港からの船便がなくやっとの思いで那覇に着くと、本島の合格者はすでに出発したあとであった。

船に乗りおくれ、10・10空襲のあとも船を待っていたが、結局部隊に入って軍と行動を共にし負傷してしまっていた。ルリたちが食糧探しに出かけている時、彼は第三外科壕にやってきて、壕に残っていた人に、
「自分は八重山中学の通事正浩です。八重山出身の守下ルリさんはいませんか」と書いた紙切れを手渡し、ルリと再会した。

「頭から顔にかけて包帯をぐるぐる巻いて、目と鼻の下の部分だけをあけた状態でした。服は戦争中だというのに、白地の浴衣姿でした。その姿を見た時には誰だかわからず、近くに男子師範の生徒たちが来ていると聞いていたので、同郷の男子師範の方だろうと思っていました。白い包帯は血と泥にまみれて汚れ、目だけがぎょろぎょろと動いていました。南風原であれほどすごい傷を見てきたのですが、同郷ということで肉親のように思えて、思わず体がふるえました。通事さんの声が出ないので、私たちは筆談をしました。
 ぼくは、通事正浩です。傷ついたので第一外科壕に石垣節さんをたずねて行き、手当てをしてもらったが、第一外科壕には患
者を入れる余地はないということで、第三外科の守下をたずねるように教えてもらったということでした。
 そして、波平の第一外科から伊原の第三外科に来るのに4日はかかった。どうか、この壕に置いてくださいと書くのです。私はこれを読んでいて、涙がはらはらと流れ落ちました。部隊からはぐれ地理もまったくわからないところで、おまけに負傷ま
でしているのです。どんなに心細いだろうと思うと、胸がしめつけられるようでした。玉代勢先生にお願いし、先生から診療主任の許可をもらって壕に入れてもらうようにしました。
 包帯を解くと、ウジがぽろほろとこぼれ落ちました。咳こむと、口の中からウジが飛び出してきました。顎をやられ歯はぐち
やぐちやになって、重油ランプを近づけて傷口を見るとウジだらけです。まるで便所の中でウジがうようよしているような感じでした。ピンセットを使って、ウジを一つ一つていねいに取ってあげたら、さっぱりしたようすでした。しかし、通事さんも結局、第三外科の壕でガス弾にやられて亡くなりました」。

  運命の分かれ道とひめゆりの塔

 6月15日ころ、この第三外科壕に一高女の生徒が親泊千代先生らに連れられて入ってきた。入れてもらえる壕がなく、よう
やくここにたどり着いた。その安里千江子と前川静子の二人は、途中で米軍のガス弾にやられて脳症を起こしていた。
「集落が焼けるのを見て、夕日がきれいなどと話し、もんぺのひもも結べなくなっていました」

その後も、学徒隊が入ってきた。壕の中は、女子師範の生徒が23名、一高女の生徒22名、教員5名、軍医2名、衛生兵5名、看護婦25名、そのほかの人々を加えて合計90名ほどにふくれあがっていた。当初豊富だった食料も底をつき、深刻な食糧難も襲ってきた。

6月18日いよいよ米軍が間近にせまり、ルリたち学徒隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。部隊解散・・・これからは一人一人の考えで行動せよ。
「それを聞いたとたん、私はただただ呆然となってしまいました。暫くして、やり場のない怒りがこみあげてきました。ここまできて、いったいどこへ行けと言うのでしょう」

翌19日の未明、絶望感の中いよいよ壕を脱出することになる。壕の中で、最後の分散会が開かれた。ルリたちは岩壁にもたれて、尻の痛みをこらえて歌った。
「全員でうさぎ追いしかの山・・・を歌い、最後に校歌を歌いました。涙が止めどもなく、頬を伝わり落ちました」夜がうっすらと明け始めるころ、通信兵が外を窺うと米兵が移動していた。壕内には緊張感が、張りつめた。やがて、「この壕の中に住民はいませんか。兵隊はいませんか。いたら出てきなさい。無駄な抵抗をやめて出てきなさい。男の人は裸になって、女の人はハンカチを持って出てきなさい。出てこないと、この壕は爆破します」と、繰り返し呼びかけられた。

「私は、いよいよ最後の時が来たと思いました。死ぬ時はこんなじめじめした洞窟ではなく、青空の下で新鮮な空気を吸い、水を腹いっぱい飲んで死にたいと思っていました」

ルリは、危険を察知して又吉キヨと二人で息苦しい壕の奥に進んだ。その瞬間、いきなりダーンダーンダーンという大音響とともに壕の中には真っ白い煙が立ちこめた。
「敵襲、敵襲」
「ガスだ。ガスだ」続いて、
「水はどこ、水・・・・」
「おかあさん」「おとうさーん」
「助けてー。苦しいー」と呼ぶ声。
「先生、苦しいよう、殺して、殺して」
「玉代勢先生。東風平先生」
「小便をしてガスを防げという、兵隊の声がしました。私はタオルを小便で濡らして、口をふさいだのです」いざという時のために、生徒たちは兵隊を拝み倒して自決用の手榴弾を手に入れていた。しかしこの時、玉代勢先生がいたずらに死に追いやらないようにと生徒たちから手榴弾を預かっていた。

「あまりの苦しさに私は、守下はここにいます。一緒に殺してくださいと叫びました。しかし、周りの苦しむ様子を目の当たりにすると、こんなところで死んでたまるかという気持ちになってきました。生きるのだ。生きるのだ。絶対に死なない。と自分に言い聞かせているうちに、いつの間にか意識を失ってしまいました」 

ルリが意識を取り戻したのは、それから実に3日後であった。周囲を見渡すと、苦しんでもんぺの紐を腹に縛り上げている者、唇が裂けている者、首が吹っ飛んだ者などの死体が溢れかえっていた。
「死体にはウジが沸き、腐った肉をついばむ音がはっきり聞こえました。梯子は真っ白い花が咲いているように見えました。よく見ると、それは全部ウジなのです。真っ暗な中でウジの白さで、そこに死体があることがわかるのです」

こうして第三外科壕はガス弾を投げ込まれ地獄絵図と化し、奇跡的に生き残った5名をのぞき職員生徒40名は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等29名、民間人6名も、運命をともにしている。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい、沖縄最南端の断崖に追い詰められて多くが消息をたった。

その後ルリはアメリカ兵と遭遇し、手榴弾で自決しようとした。しかし信管を叩いても爆発せず、その手榴弾は不発弾であった。こうしてルリは、アメリカ軍に保護された。

南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二が、こうして最期をとげたのである。真和志村民の協力により昭和20年ここに最初の「ひめゆりの塔」が建ち、次第に整備された。ここは沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員16名生徒208名の戦没者を合祀し、平和の原点とされている。
   
     
                        BEFORE〈〈    〉〉NEXT

inserted by FC2 system