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       ヒージャークワックシガマの死闘Ⅱ
           
    満山凱丈さんの沖縄戦Ⅳ
 
             
    
沖縄県糸満市                                                     
        
   
                  ヒージャークワックワシガマの中で語る満山さん 2005 6 10
       
 
      当時の地下足袋などが残っている〉

 
  
  
          〈立派な鍾乳石に驚かされる

 
   〈入り口からしばらくは、天井が高く閉塞感は少ない〉

 
 
     〈内部は急激に狭くなり進めなくなる〉  
      
          十勝毎日新聞 2005 6 15


日にちを忘れぬために書いていた満山の日記は、815日になっていた。その日記は日付がずれてしまっていたが、一週間ほど前の夜、一晩中米兵がお祭り騒ぎをしていた日があった。

スピーカーからジャズを流し、狂ったようにどんちゃん騒ぎをし大声で兵隊はわめいていた。まさかこの日が、終戦の日であったとは、満山たち残る3名は気がつかなかった。

この日3人は、お盆のご馳走を作っていた。黒砂糖と空豆で餡をつくり、米を炊いておはぎを作った。このあたりから、米軍の攻撃が急に少なくなった。毎日の日課になっていた壕内への手榴弾と機関銃の撃ち込みもなくなった。

そして、夜間そっと外に出ると、不思議なことに日本兵の死体に黒い土がかけられているのが目に入った。米軍の砲撃がなくなると、急に野生動物が姿を現した。まずは、ネズミであった。縦横無尽にネズミが走り回り、3人の食料を荒らし始めた。寝ている満山の腹の上をネズミが走り抜けようとした瞬間、満山はネズミを捕まえてしまった。

それは、ウサギのような大きさがあり、どうしていいものか、満山は前田に渡した。料理上手の前田は、そのネズミの皮をむき焼いて食べた。肉が少なく、あまりおいしいものでもなかった。

そのネズミたちを目当てに今度は、ヘビたちが現れた。再び前田が、料理に挑戦する。ぶつ切りにして飯ごうで煮て粉醤油で味付けをしたが、これもあまりおいしいものではなかった。

ヒージャークワックワッシガマ

 この満山凱丈さんたちが潜んでいたガマは、地元研究家の長年の調査で近年突き止められた。糸満市にある与座岳(標高168メートル)北崖の、真下にある。山頂には現在防衛庁が管理しているレーダー基地が、聳えている。入り口は狭く、岩の割れ目のような代物である。
 ここは地元の人が「山羊をかくす場所」という意味の「ヒージャークワックワシガマ」と呼ぶ自然洞穴である。

「沖縄の人も、日本兵もアメリカ兵も、ここで死にました。それはみんな戦争のためだったんです。お互い何も不満がないのに、殺し合うということはいかに罪悪か。私は幸か不幸か、一命をとりとめて生きていますが、昔のことを考えると断腸の思いです」

2005610日、戦後中に入るのが2回目となった満山さんは、入り口でこう語った。まず入り口から垂直に、洞窟は始まっている。途中まで地元民が作った階段が、現在も残っている。現在は、密林の中に入り口がある。
「当時は、辺り一面焼け野原でした。中に入ると、黄燐弾が炸裂した跡がありました。地元の避難壕として、整備したんでしょうね。
 
 学校の書類がたくさんありましたので、学校関係者が避難していたのでしょう。天井からの水滴を防ぐトタン板が、三カ所に吊ってありました。下士官の死体もありました。手紙が、枕元にありました」
 入り口を入ると、通路はすぐに二股に分かれている。本道とは別のトンネルは行き止まりになっており、自決しようとして出て行った横井兵長が、たぶんこの中で力尽きて亡くなったという。また衰弱死した朱山上等兵の遺体も、この中だろうという。

「死んだ朱山を毛布に包んで、この中に入れたんです」
 さらに下りていくと、天上の高さが10メートルはあると思われる鍾乳洞に出る。思ったより天井は高く、閉塞感は少ない。夏は涼しく冬は暖かいという。しかし当然照明がないと中は真っ暗であるし、毎日のようにアメリカ兵に機関銃と手榴弾を投げ込まれたとなれば、話は別である。

しみ出る水滴を集めて、満山さんたちは飲み水にした。食器茶碗のかけら、軍靴がそのまま残っている。満山さんが進入してきたアメリカ兵を撃った居住地が直ぐそこに見えるが、通路が落ち込み私はたどり着くことか出来なかった。

撃たれて死亡した米兵は、武器を持っていなかった。しかも米兵には、危険な洞窟への立ち入りは厳しく制限されていた。ではなぜ、彼らはこの洞窟に入ってきたのだろうか?

「今考えると、こっそり彼らは記念品でも探しに来たと思います。 軍刀とか日の丸とか、なにか記念になるものですね。武器をもって出ると、周りに疑われる訳ですから」
 なるほど、その後直接の報復攻撃がなかったことを考えると、妥当な仮説である。当時と比べると、地殻変動などで内部は確実に狭くなっているという。60年の月日を感じ取れる話である。

このガマを発見し、5人が潜んでいたものと確認したのは那覇市の与儀喜一郎さんである。現在沖縄平和ネットワークの一員として、活動を続けている。昭和19年生まれの彼には当時の記憶はないが、父を失い当時2歳だった姉は戦火の中で行方不明のままである。今もどこかで生きていることを、信じているという。


          〈BSドキャメンタリー「沖縄戦 地獄」の撮影をかねたガマ。 出口も狭い〉

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