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       ヒージャークワックシガマの死闘Ⅰ
           
    満山凱丈さんの沖縄戦Ⅲ
 
             
    
沖縄県糸満市                                                     
        
  
                       〈現在の与座岳  2007 1 11〉

       
 
         与座岳山頂  2005 6〉

 
  〈ヒージャークワックワシガマの入り口は岩の裂け目〉 

 
   〈BSドキャメンタリーの撮影をかねてガマに入る〉

 
      〈しばらくはこのような場所を進む〉

  

  
    ガマの入り口で語る満山さん 2005 6 10〉

  
              〈入り口を見る

618日ころ与座岳の麓にある「戦闘司令部壕」で九死一生を得た満山凱丈がその後たった一人でたどり着いたのは、「工兵隊」の壕であった。中は満員で、厄介者にすぎない満山は入り口近くに自分の居場所を見つけた。無論、食事の支給もない。

この壕でも、毎晩のように「斬り込み隊」が出撃していきその様子を、「よそ者」の満山は眺めていた。そして、この壕もアメリカ軍の「馬乗り攻撃」を受けることになる。

「馬乗り攻撃」とは、洞窟の上から削岩機で穴を掘り、その穴から爆薬や毒ガスそしてガソリンを注入し、中の日本兵を皆殺しにする攻撃方法である。
「米軍が、来ているっ!」という叫び声の後、機械音が真上から聞こえた。米軍は、削岩機で真上から穴を掘り始めたが、中の兵たちは息を殺しなり行きを待つ以外に方法がなかった。そのうち、「どさっ!」という物音が聞こえた。

「爆薬だっ!」壕内の誰もがそう思い、死を覚悟した。すると、一人の少年兵が爆薬に駆け寄り、何かを引き抜いた。爆薬の信管を、引き抜いたのである。周囲が、安堵の声を上げた直後、今度は煙が充満し始めた。煙責めにして、日本兵をいぶり出す作戦だ。我慢仕切れず二・三人の兵が、飛び出していったがたちまちのうちに撃ち殺されてしまった。

満山は、地面に口をつけたまま意識が遠くなっていった。翌日、再び爆薬が投げ込まれた。
「例のやつだ、爆薬だ」瞬間に最悪の事態が、ひらめいた。
「えーい。死ぬなら死ねっ!」満山はそう覚悟すると、次に起こる爆発を待った。

「ピカッ!」青白い閃光が、目を射る。強烈な爆発とともに、砂が鞭のように満山の顔をたたいた。ガラガラと洞窟は、音をたてて崩れ始める。満山は、伏せたままじっと目をつぶっていた。死ぬことも、恐ろしくなかった。自分の頭上にある巨大な岩石が、一挙に死なせてくれる。暫くしてふと、我に返った。

「俺は、生きているのか?」銃声がやみ、夕方になっていた。カンテラに火をつけて見ると、崩落は満山の二メートルぐらいのところで止まっていた。またしても洞窟は破壊され、死体が折り重なっている。しかし、満山はこの洞窟を出て行く気にはなれなかった。行き先の当てがないからである。
 死を待つばかりの日が続いたが、満山はこの洞窟に取り残された者たちと話をするようになった。満山をいれて、6名の負傷兵であった。時々負傷していない兵たちが戻ってきたが、いつの間にか姿を消していった。

満山たち負傷兵は、ここでも足手まといになるため見捨てられていった。そして、6人が取り残された洞窟には、毎日米軍がやってきては、手榴弾を投げ込み機関銃を撃ちまくっていた。

    五 名

満山たち負傷兵のグループは、脱出することを決心した。6名が5名に減っていたが、近くに別の洞窟を求めて移動した。77日ころのことである。

身を寄せた洞窟の中には、死体もあったが生活用具や食料も残されていた。洞窟の内部はどこまで続いているかわからないほど、永遠と続いていた。ここで、負傷兵5人の、共同生活が始まった。横井兵長(札幌市出身)朱山上等兵(白糠町出身)前田一等兵(神戸市出身)飴谷一等兵(富山県出身)そして 満山上等兵である。

ある日食料調達のために、別の洞窟に出かけた。その洞窟も、死体であふれ注意していても、死体を踏みつけてしまう。そのたびに骨の折れる音がボキッボキッと、足下に響いた。ぶよぶよの死体に、足をのめり込ませてしまうこともあった。

満山がミイラのような死体を見たのも、この日であった。手足の筋肉が黒く干からびて、骨にぴったりとくっついていた。しかしその洞窟には、食料が豊富に残され満山は前田と2人で、何度もこの壕から夜間食料を運んだ。米、粉味噌、粉醤油、干しレンコンを手に入れた。

こうした5人の共同生活をしていた壕に、ある日米軍の兵士が入り込んできた。不覚であった。それまで、入り口からは毎日のように手榴弾が投げ込まれ機関銃の弾が撃ち込まれていたが、米兵は決して危険な洞窟の中には入ってこなかった。

従って満山たちは、昼間はじっと洞窟内で睡眠をとり、夜間の外出に備えていたわけだ。物音に目が覚めると、満山たちから3メートルのところに敵がいた。34人の米兵が、懐中電灯を照らして何やら話しをしている。日本兵5人には、まだ気がつかない。

たとえ気がついても、ボロにくるまった死体としか思えないであろう。手榴弾は手元にあったが、あまりに距離が近すぎて使えない。手元の拳銃は調子が悪くて、弾倉をはずしたままであった。満山は、運を天に任せて暗闇の中で弾倉を装着し、懐中電灯に向かって引き金を引いた。

「ガーン!」と爆弾の炸裂したような大きな音が、壕内に響き渡った。米兵たちは、悲鳴を上げて我先に逃げ出した。
「ウーン」と呻く米兵に、前田が
「撃てっ、撃てっ!」と小さくそして厳しく言ったが、満山は撃たなかった。続けて撃てば、日本兵の存在がはっきりしてしまう。一発だけであれば、何かのショックによる銃の暴発と思うかもしれない。

米軍の報復が、何よりも恐怖であった。点いたり消えたりしている懐中電灯を拾って、倒れている米兵を照らしてみた。5人の大小便をためていた樽をひっくり返し、糞尿にまみれ彼は死んでいた。死んだ米兵は、まだ童顔の白人兵であった。彼が武装していないのを、満山は不思議に感じた。
 彼の腕時計が目についたので、はずして自分の腕に巻いた。秒針が短針と長針と同じ軸についている、満山が初めて見る時計であった。逃げていった敵が、仲間をそのままにしておくとは思えなかった。耳をすますと、石の転がる音が聞こえ、誰かが入ってくる気配だった。

「敵だっ!」5人は、銃を構え洞窟の奥から息を殺して成り行きを見ていた。結局入ってきた米兵は、死体を抱え退却して行った。

その後数日して、満山は前田と二人でイカダを探しに洞窟をでた。海岸からイカダを作り、日本軍のいる沖縄本島北部に脱出しようと考えたわけだ。洞窟の奥深く続いている細い通路が、ひょっとすると那覇方面に続いているかもしれないと思い、前田と二人で奥深く探検に出かけたこともあった。

しかし、夢のようなこれらの計画はどちらも失敗に終わった。満山と前田は、飴谷の残る洞窟に戻り始めた。というのは、横井と朱山はすでに死亡し、仲間は三人になっていた。横井兵長は体の衰弱が激しく、前途を悲観し手榴弾をもってある日洞窟から出て行った。自決の道を選んでいったわけだ。朱山上等兵も、洞窟内で衰弱死している。

満山と前田は、元いた洞窟をなかなか見つけ出すことができなかった。それは、二人が留守のうちに地形がかわるほど米軍の攻撃を受けたからだであった。

童顔の米兵を射殺した報復か、あるいは618日前線を視察中だった米軍司令官バックナー中将戦死の報復かの、どちらかであろう。
 当時、米軍は無差別報復殺戮を行っていた。バックナー中将は、沖縄作戦を指揮する米第10軍の最高司令官であった。第2次世界大戦の、米軍最高位の戦死者でもある。 


  
         〈BSドキャメンタリー「沖縄戦 地獄」の撮影をかねてガマに入る。内部は照明があると輝く鍾乳石の世界〉

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