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        一家全滅の集落 新垣と真壁
            
               あらがき       まかべ               

    
沖縄県糸満市                                                     
        
    
          〈真壁千人壕。巨大洞窟だがここも民家や農地の下にあり、驚かされた。2005 8〉
       
 
         新垣集落 2005 6〉

  











           〈10センチ榴弾砲
 
   
       
  
      〈米須集落の慰霊碑 一家全滅が多い〉

  
        
   〈真壁千人壕の内部〉

  
          〈千人壕の内部から入り口を見る

  
     〈
野砲兵第42連隊碑の前の喜屋武盛夫さん
  
  
            〈周辺は慰霊碑が多い
       
    
     


 日本兵の住民虐殺で名高い「真栄平」からわずか2キロほど道を北西に辿ると、「新垣」集落がある。私が訪ねた2005611日も、60年前と同じように夏の太陽が降り注いでいた。ここでも、当時数々の人間ドラマが繰り広げられていた。
「私には、忘れられない出来事があります。多くの沖縄の人々が兵隊達に壕から追い出されたりしたようですが、私の場合は違います。私は逆に、助けられたんです。ひとりぼっちで、戦場をさまよっていると少年がやってきて、『兵隊さん、どうしたんですか?』と、言ってくれました。水くみにきた中学2年生でした」

こう話すのは、与座岳北の壕で満山凱丈同様生き残った恵田光之(敬称略)である。彼の部隊は、この時すでに壊滅していた。恵田光之は仲間も失い、焼け野原の戦場で一人途方に暮れていた。現在の糸満市新垣の、あたりである。

「うちの壕なら、まだ一人くらいは入れますよ」その少年は、彼に言った。こうして少年に連れられた壕は、屋根があるだけの粗末なものであった。そこに60歳くらいの老婆と息子夫婦、そして案内してくれた中学生がいた。中の住人達は大切な食料の中から、一本のサツマイモを恵田光之に手渡した。彼をいれて合計五人になったところで、負傷して杖をつきさらに小さな男の子を抱えた30歳くらいの女性が現れた。

「なんとか、中に入れさせてもらえないでしょうか?」壕の主は子供の姿を見て断ったが、婦人は中に入ってきた。その母子が入ってきて1時間もたたないうちに、アメリカ軍が姿を現した。

 現場は、最前線の戦場である。戦車を先頭に、アメリカ軍がやってきた。その時、その3歳くらいの男の子が水を欲しがりぐずりだした。
「今すぐ、出て行ってくれ!」壕の主が母子に言ったが、出て行くわけにも行かない。そのうち母親が、だまんなさい!と、その男の子のお尻をつねってしまった。
 とたんに男の子は大きな泣き声を上げ、アメリカ兵はその声に気づいた。たちまち
2発の手榴弾が、壕の中に投げ込まれた。爆発した手榴弾で、老婆を含む2人が大けがを負った。

負傷した2人が方言で何か言うと、中学生が壕から飛び出して行った。暫くすると、その中学生が戻ってきた。出てこないのならアメリカ軍は爆破するということを、伝えてきた。壕内は、沈黙した。
「母親の女性が私に、持っている手榴弾で一緒に死んでくださいと言ったんです」しかし恵田光之は、生きる道を選んだ。

「私が先頭になって、壕から出たんですよ」彼は負傷した老女を背負い、泣き声を上げた男の子を抱っこして歩いた。
「膝に怪我をしていた母親が、私の方を見て手を合わせて拝んでいました。その姿が、今も忘れられません」こうして、この七名の命は救われた。

この日も、昭和20623日であった。牛島司令官が自決し、沖縄の組織的な戦闘が終了した日である。
「梅雨が明けて、この日もとてもよく晴れていましたよ」

  野砲兵第四二連隊

恵田光之の部隊は、第24師団野砲兵第42連隊(2298名)であった。
「私の中隊(150名)は、10センチ榴弾砲を4門持っていました。大砲を撃つには、人手が大勢いるんですよ。満州から沖縄に、砲を移動させるための馬まで連れてきましたよ。大砲一門運ぶのに6頭の馬が、しかも大型のものが必要なんです。可哀想に、人間よりも先に馬がやられましたよ。馬が死んで、仕方がなく人力で砲を移動させました」

恵田光之は、大正12年に現在お住まいの北海道芽室町に生まれている。昭和18年に徴兵され、旭川から直ぐに満州の東安に送られた。
「沖縄に着いたのは、昭和1986日です。移動を繰り返して、識名(しきな)528日の撤退までいました」

ここで「5月4日の総攻撃」を、経験することになる。この日午前450分、沖縄守備軍は総反撃を開始した。地下壕に温存していた砲がいっせいに火を吐き、これに合わせて九州の知覧や鹿屋から飛来した神風特攻機が海上の米艦船に襲いかかった。その攻撃の凄まじさは、米兵が一度も体験したことのないものだったという。

「水に浸した毛布を砲身に被せて冷やしながら、撃ちまくりましたよ。私の中隊は丘陵越しに撃ったので、敵からの攻撃が少なくて済んだんです」

しかし、日本軍の反撃は長くは続かなかった。米軍は即座に応戦し、午前8時頃には日本軍の攻撃をほぼ鎮圧してしまった。
「私の中隊は4門とも無事でしたが、運ぶ馬がいません。2門を爆破して、残りの2門を残った兵隊で運んだんです」
運ばれた先は、与座岳北側の崖の下であった。
「崖を掘って砲を入れようとしたんですが、間に合いませんでした。そして615日に、米軍戦車と直接撃ち合って全滅してしまったのです。実はその時私は連絡兵として出動中で、その場にいなかったのです。歩兵76部隊の本部壕に、行っていたのです

この歩兵76部隊とは、山三四七六部隊つまり歩兵第89連隊を指す。その壕で、彼は先に紹介した米軍の毒ガス攻撃を受けたことになる。その後、「自分の中隊長を捜しに、二人で出かけました」
 しかし、新垣の集落はすでに米軍に包囲され、暗闇の中に虫が這うように大勢
の兵隊達が見えた。敵中突破をしようとしていた、兵隊達である。
 
 暗闇の中に、ヘルメットがきらりと光っている。50メートルほど離れたところに、10人ほどの人影が見えた。一緒にいた十良沢は、味方だと思って声をかけてしまった。
「だめだっ、敵だっ!」と、恵田は叫んだ手遅れであった。良沢は、たちどころに自動小銃で撃ち殺されてしまった。そのあとアメリカ兵は、恵田の方に這って近づいて来た。彼は包帯に包まれていた手榴弾を、取り出した。雨の中、三ヶ月も持ち歩いていた2発のうちの一つである。

 ピンを口で抜いて、岩にたたきつけるとうまいことに火花がシューっと出た。敵兵に向かって投げると、爆発した。こうして彼は九死に一生を得てその夜を過ごし、翌朝地元の中学生と出あったわけである。

「その中学生の名前も、わかりません。那覇の方からきた中学生です。私が抱いた男の子も、わかりません。現在63歳くらいになっているでしょうね。会ってみたいですね。私の中隊は150名いて、生きて戻ったのは7名だけです。芽室町では沖縄で60名がなくなり、やはり生きて帰ったのは私を含めて二人だけです。沖縄戦での兵隊の生存率は、43パーセントと言われているんですよ」

現在糸満市に含まれている本島南部の集落は、どこも多くの犠牲者をだしている。紹介した真栄平・宇江城・新垣をはじめ、南の米須・真壁・山城は更にその被害の度合いが大きいようだ。

「ひめゆりの塔」にほど近い米須の集落では、1040名の住民のうち580名が犠牲になっている。618日に日本軍の戦線が崩壊し、敗残兵が住民を壕から追い出している。一家全滅になった住民が50159人に上っている。その犠牲者を祀っているのが「忠魂の塔」である。  

碑には、「昭和20620159名」の文字が入っていた。「米須」の北隣の集落が「真壁」である。ここには、「千人壕」という壕があり悲劇の現場となっている。

 巨大な壕だけに、森林の中にでもあるのだろうと思いきや、またしても民家と畑の真下にあり私を驚かせた。
「千人壕」の名前の通り、中は千人は入れるだろうと思われる体育館のような空間が広がっていた。当時は迫撃砲で入り口が攻撃され、多くの犠牲者を出したという。軍民が混在して避難生活をしていたが、泣き声を上げた子供が兵士に殺害されることもあった壕である。

その真壁集落の北側に、慰霊碑が固まっている一帯がある。真壁の住民を慰霊する「萬華の塔」と並び「野戦重砲第一連隊」・「独立重砲兵第一〇〇大隊」そして恵田光之の所属していた「野砲兵第42連隊」の碑が建っている。ここが野砲兵第42連隊の、「終焉の地」とされている。

私はここで、偶然この部隊にいた元兵士と出会うことが出来た。現在85歳の喜屋武盛夫さんは、与那原町にお住まいである。
「昭和1316歳の時にサイパンに一家が渡ってねえ。ガラパンに、住んでいたよ。グアム島にも、住んでいたね」

戦局の悪化に伴い沖縄に引き上げたあと、彼は入隊することになった。砲兵の仕事が主であったが、琉球語が話せることで後に「憲兵」にされてしまったという。
「憲兵隊に送られて、これからはどんなことがあっても生き延びろと教えられたんだよ。それまでとは、正反対の事を言われてね。それまで一銭五厘で死になさい。代わりはいくらでもいるからと教え込まれていたからね、困ったね」

そして与えられた仕事は、「敗残兵狩り」ならぬ「敗残兵の収容」であった。知念半島を担当したが、軍服を捨てた敗残兵は壕の中で民間人に紛れ込んでいたという。琉球語を話せない彼らを見つけ出すことは比較的容易だったと言うが、
「いきなり近づくと、撃ち殺されかねないからね。殺された憲兵もいるよ」それは、危険な仕事であった。


   
                          〈真壁集落 2005 6 11〉

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