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           真栄平集落の悲劇
            
まえひら                                                                         

  沖縄県糸満市                                                     
        
    
          〈真栄平の宇江城集落にあるクラガー。住宅街の真下にあることに驚かされる   2005 6 11〉

       
 
       南北の塔から真栄平を望む〉

 
           〈牧野茂治さん〉
 
       
            〈当時の牧野さん〉

 
        
   〈クラガーの入り口〉

 

 
        〈クラガーの内部 西永勝治さん撮影

 
        〈採集された遺骨 西永勝治さん撮影
  
  
            〈語る金城幸栄さん

  
 〈語りべもされている金城さんが見せてくれた当時のもの
  
  
         〈南北の塔に隣接する慰霊碑
         


「一番ひどい目にあったのは、やはり沖縄の人たちですよ。軍に、壕から追い出されたんですから。米なんか持っていたら、そこに置いていけっと言われていました」
 そう語るのは、北海道音更町の牧野茂治さんである。その壕とは、沖縄南部を守備しほぼ壊滅した第24師団の司令部壕である。

630日に壕の中で解散命令のようなものが出て、雨宮師団長をはじめ参謀達が自決したんです。その日私達兵隊は、司令部壕を脱出したんですよ」 

その司令部壕は、すでに米軍に発見され入り口が塞がれていたが、空気を取る穴があり、呼吸だけは大丈夫であった。625日ころ、米軍がやってきた。米軍は出てこないとガソリンを流し込んで、火をつけると放送を繰り返した。
「ガソリンを何千リットルとか、ドラム缶何百本とか言っていました。私達は毛布を積み重ねて、通路を塞いだんです」そして米軍は、本当にガソリンを流し込み火をつけた。
「火を食い止めたんですが、通路の下が川になっていてその川の水と一緒に火のついたガソリンが流れてきて、毛布で叩き消したんです」

現在糸満市宇江城にあるその壕を、「クラガー」と地元民は呼ぶ。クラガーとは「暗井戸」という意味で、地元民の避難洞窟と水くみ場を兼ねていた。65日に第24師団(山部隊)司令部が、ここに後退してきた。

上陸した米軍に追われて日本軍は、首里から南へ後退し始めていた。本土決戦の時間稼ぎのため、司令部は決戦を避けていた。
 24師団を中心に約3万の将兵が、住民とともに南下していった。避難民と日本兵が入り乱れ、そこに米軍が攻撃をかける。その一方的な攻撃は、もはや戦闘とは言えない「殺戮」であった。 激戦地の糸満の中でもここ「真栄平」地区は、住民の戦没率が最も高く二人に一人以上が亡くなった一帯である。

このガマの北側にある与座岳に、追いつめられた日本軍が最後の防衛線を敷いた。このころ7キロ南の喜屋武岬では、逃げ場を失った住民達が海に身を投げていた。そしてこの真栄平・宇江城(うえぐすく)周辺には、行き場を失った日本兵や他の地区の住民がなだれ込んでいた。

「私は、司令部の通信隊にいました。暗号文を作ったり解読したりする仕事が、中心でした。数字みっつで、一つの言葉になるんです。二ヶ月ごとに乱数字の暗号を変えるのですが、敵に解読されていました」牧野茂治

「戦争は人間を狂わせるんです。人間の良心もなくなるんですよ」いきなりそう私に話し始めたのは、現在も真栄平集落に住む金城幸栄(きんじょうこうえい)さんである。真夏の太陽が照りつけ、私はとにかく飲み物を求めて飛び込んだ商店の主人が彼であった。

「あんたヤマトンチュー(日本人)やね。色が白いから分かるよ」
「そうですが」と私が答えると、彼は話し始めた。
「私は、クラガーに避難していたんだけどね、日本軍に追い出されたんだよ。415日ころだと思うよ。クラガーの中は二股に分かれていて、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっているよ」

入り口から400メートルくらいまでは、人が暮らせるという。当然中は真っ暗だが、蝋燭など当時はなくせいぜい山羊の油を蝋燭代わりにしていたし、人間の目は徐々に暗闇になれて来るらしい。
 住民を追い出したあと、第24師団司令部が使用しはじめ、中に天幕を張ったりしていた。彼は当時15歳であった。           
「追い出されたあと、現在南北の塔があるアバタのガマに避難したんです」
 780名で暮らしたが、そこも出て5月末に簡単な防空壕を掘り畳四畳くらいのスペースに、21名で肩を寄せ合うように避難生活を始めた。そこから彼が目撃した戦場は、凄まじいものであった。真栄平の集落は、米軍に焼き払われた。
「まず飛行機がガソリンを、まいてね。3時間で真栄平は、燃えてなくなったんだよ。そのあとは採石場のように、村は真っ白になったんだ」沖縄のサンゴ礁の地盤は、白い。彼が左足を負傷したのは、610日ころであった。

「どうしてもおしっこがしたくなってね、壕の中ですれば良かったんだけど、恥ずかしくて外にでたんですよ」
 そこに迫撃砲弾が打ちこまれ、破片が彼の左太ももを貫いた。一週間でウジがわき、自分の小便で消毒することになる。
「水がなくて困ったね、一人一日300CCくらいですよ。食べ物だって、いもが一日一人3つくらいだったね」

 私がこの話を伺っていると、そこにおばあさんが現れた。
「この村はね、日本軍に大勢殺された村なんだよ!」彼女の口調は、厳しかった。
 軍の組織が崩壊し、6月中旬敗残兵が首里方面からこの村になだれ込んできた。暴徒化した一部の敗残兵が、逃げ場を求めて住民を防空壕から追い出したわけである。
 そしてそれに応じない村人を、殺害する事件が起こった。621日未明に、これらの事件は続発している。日本刀を振り回し、さらには手榴弾を壕に投げ込んで住民を追い出した。78名の住民が日本刀で殺害され、30名以上が手榴弾で斃れたという。

「推定で7名です。日本刀で殺されたのは」金城さんの語気も、強かった。約1千名いた村人の半数以上が戦禍に斃れ、戦後戻ってきた住民も300名足らずであった。
「確かに軍服を捨て、住民の着物をきている兵隊が怖かったです」彼は、620日ころ近くで大きな爆発音を聞いている。
「海行かばを歌っている兵隊達の声が、聞こえたんです。その後、爆発音が聞こえました。こわごわと見に行ったんです」兵達たちの自決が始まっていた。遺体は、土埃にまみれ性別さえ分からない状態であったという。

 623日に、米軍は真栄平集落に入ってきた。戦車と火炎放射器を先頭に、村の掃討作戦を展開し彼の壕も、発見されてしまった。
「機関銃のあと、手榴弾が2個投げ込まれました」
5名が、亡くなったんです」結局この真栄平では、900名の住民のうち349名だけが生存したという。

625日まで、司令部壕の「クラガー」は米軍に発見されなかった。623日に牛島司令官が自決し、すでに組織的戦闘は終了し米軍は掃討作戦に入っていた。
「日米のお互いが、多くのスパイを放っていたらしいです。同じ人間が、アメリカ側のスパイにも日本側のスパイにもなることがあったと思います。生きるためですよ」当時初年兵だった牧野茂治も、民間人がスパイとされ処刑された場面を知っている。

「ある役所の局長が、銃殺されました。地元の若い女性が捕らえられ、見せしめに縛り付けられた事もありました。そして地元の人に、その女性を竹槍で突かせたのです。竹槍を手にした人は、目をつぶったまま突いていました。突く直前に目を開けて、手や足を突いていました。戦争とは言え地方人が、一番ひどい目にあったんです」

    脱 出                 

そして、630日を迎えていく。師団司令部は、総数262名であった。
「洞窟の中は川が流れていて水はありますし、食料も蓄えられていました。ただ夜間の斬り込みが始まり、少しずつ数が減っていきました。私も何度か志願したんですが、川尻参謀が私を止めるのです。おまえは、まだ死ぬなと。結局この川尻参謀は、斬り込みで戦死しました」司令部の将兵自らが「斬り込み攻撃」を、実施していたわけである。戦闘は、最終段階を迎えていた。

「自決した雨宮中将は、大人しくて優しいおじいちゃんでしたね。直接話したことなどありませんが、各自本分を尽くせと訓示し、自決したようです。たぶん青酸カリだと思います。周りの参謀達も自決しました。青酸カリや、手榴弾が多いんです」

自決を選ばなかった兵達は、この日洞窟からの脱出を試みた。
「米軍に塞がれていたのですが、たまたま工兵隊のものがいて道具があったんですね。通路を掘って、外に出たんです」夜を選んだつもりだが、外は午後の太陽がさんさんと降り注いでいた。

「私達の岩を砕く音を聞いて、戦車が待ち伏せしていました。直ぐに銃撃されて、先に出ようとした兵は殺されたんです」米兵が去る夜を選んで、彼は脱出した。
「同じ幹部候補生の小林(函館出身)と、出たんです。あたりは、一面焼け野原でした。身を屈めて進んでいたんですが、狙撃されました。小林は、声も出さずに死んだのです」 即死で、あった。

付近の真栄平・宇江城は、第24師団歩兵89連隊などが最期を遂げた地域である。この第24師団(雨宮中将)は北海道で編成されたが、昭和19年第32軍に編入され8月に満州から沖縄へ移動している。
 司令部、歩兵22連隊、32連隊、89連隊(金山大佐)、制毒隊、捜索24連隊、野砲42連隊、工兵24連隊、通信隊、輜重兵24連隊など合計12千名で編成されていた。  

牧野茂治(敬称略)は、現在お住まいの北海道音更町に大正12年に生まれている。家業の農業を継いでいたが、昭和19年1月に入隊した。
「第7師団の通信隊に入り、旭川には10日しかいないで満州の東安に送られましたね。半年そこにいただけで、沖縄に送られたんです」

その第24師団は、第9師団の台湾移動に伴い昭和1912月から南部島尻方面の守備に当っていた。第24師団の各部隊は、次々と崩壊していく。 32軍の「摩文仁」への後退に伴い5月末から撤退を始め、6月上旬には部隊の殆どが南部に退却していった。そして630日には雨宮師団長も自決し、師団は崩壊したわけである。

牧野茂治が投降したのは、昭和20818日のことである。彼は現在満81歳、現在も毎年のように遺骨収集に出かけている。
「私のいた師団司令部で生きて帰ってきたのは、私一人のようです。この音更町でも、沖縄で亡くなった人は120名もいるんですよ」

私は金城幸栄さんと出会った日、レンタカーを止めその「クラガー」のガマにただひとりで入ってみた。整備されていない無人のガマに単独で入る事は、危険である。この時のために準備したハロゲン球の懐中電灯だけが心強かったが、たちまち泥濘の水路に足が取られ冷や汗をかいた。

 このガマの真上に住む小学生玉城光平君に話を聞くと、子供達もガマの中に入ったりはしないという。ガマは死者の霊が眠っている「聖域」と、されているからだ。なるほど、内部は軍靴や食器など多くの遺品が至る所に目につく。
60年前の、人々の息吹が聞こえてくる


       
           〈南北の塔の真下にあるガマ〉

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