HOME〉Okinawa                                                Okinawa>2005-07



          馬乗り攻撃と与座岳よざだけ
             
満山凱丈さんの沖縄戦Ⅱ                                                      
                   

                                                       
        
    
      〈与座岳周辺には多くの洞窟が残っている。満山さん恵田さんが馬乗り攻撃を受けた壕はここかもしれない                                                     
                                                 2005 6 11〉
       

 
         体験を語る満山さん〉

 
             〈上の壕の入り口〉


 
           〈斜坑がどこまでも続いている〉

 
  
   〈現在の与座岳山頂には自衛隊の施設がある〉


  
              〈恵田光之さん〉
        
           十勝毎日新聞 2005 6 21


  



  

                        

24師団第一野戦病院の東風平分院はこうして解散し、同時に放棄されていった。収容されていた満山凱丈は、解散前にこの分院から出ていた。ある日、軍医たちが兵士たちの傷の具合を調べて回りだした。負傷兵の傷の大きさなどが、ノートに記録されていく。そして、それが終わると兵隊たちの名前が読み上げられた。再び兵士として、戦場に送られていく兵士の名前である。

その中に満山の名も、含まれていた。わずか20メートルほどの視力しかない彼も、再び最前線に送られた。送られた先は、津嘉山にあった連隊本部であった。夜中の12時過ぎ、土砂降りの雨の中を近江中隊長の一行がずぶぬれの姿で満山たちのいた壕に入ってきた。ここで負傷兵たちだけで中隊の後を追う命令が出された。

ずきずきと痛む目に膿がたまり、狂いそうな傷の痛みに満山は呻いた。八重瀬へ移動するという女学生看護婦が見かねて、たまった膿をとりガーゼを取り替えてくれた。彼には、この女学生が天使に見えた。

そして、後方へ移動する日がやってきた。しとしと雨の降る夜、満山たち12名の負傷兵は南に向かった。機関銃の音が聞こえ照明弾が次々に上がり、米軍は本当にすぐそこに迫っている。泥濘の、東風平街道を南に進む。不自由な目が、行く手を遮り彼はしばしば転倒した。

与座にある中隊本部を目指す一行は、激しい砲撃の中を進んでいく。次々に死者が出て12名が7名になってしまった時、一行はある洞窟にたどり着いた。ほっとしたのもつかの間、もの凄い砲撃のあと、洞窟内には黄燐弾が撃ち込まれた。硫黄の燃える臭いにのたうち回りながらも、満山は何とか危機を脱することができた。

    与座(よざ)

その後五人に減った満山たち負傷兵の一行は、与座岳の麓に構築された近江中隊本部(戦闘司令部)にたどり着く。そこは、山中に洞窟迷路が掘り巡らされた地下要塞であった。現在の糸満市高良に位置するが以前は、台湾に渡った第9師団(武兵団)が使用していたものであった。

標高168メートルの与座岳は、現在航空自衛隊与座岳分屯地のレーダー基地になっている。この壕でも、満山たち5名は歓迎されなかった。足手まといになる負傷兵の満山に、ある准尉が詰め寄った。

「おまえは、歩兵操典を知っているか?」満山たちは、言葉に詰まる。その内容は、「負傷したなら厄介者になるな、足手まといになるな」という、上層部に都合のよい教えである。
 米軍の戦線表示旗が、日ごとに接近してくる中で、最後の戦闘準備が行われた。通路にうずくまっていた満山たち負傷兵は、狭い天井裏に集められた。起きあがれば額を岩盤にぶつける狭い空間であったが、周りのじゃまにならず立場の弱い患者同士が一緒に過ごせることは、何よりうれしかった。

季節は本格的な夏の訪れとともに、洞窟内は蒸し風呂状態になっていった。汗が全身から噴き出し、敷いた毛布をじっとりと濡らした。そして毎晩各部隊から兵が集められ、夜間の「斬り込み」部隊が次々に出撃していった。「斬り込み」とは、すなわち「死ぬこと」を意味していた。米軍の野営地を襲撃したが、その野営地の大半はおとりのテントで、待ちかまえていたのは米軍の機関銃であった。

馬乗り攻撃

 山全体が砦になっている地下陣地は、何度も米軍の攻撃を受けたがそのたびに何とか撃退した。しかし、とうとう「馬乗り」攻撃を受けることとなる。
「火炎放射だっ!」
「清野班長が、やられたっ!」
突然、火炎に焼かれた兵隊たちのうめきと叫び声が聞こえた。強烈な爆発が起こり、激しい振動に洞窟全体がぐらぐら揺れた。支柱が倒れ、洞窟は崩れ始めた。灯りが消えて、真っ暗になった。
「ガスだっ!」誰かが怒鳴った。すぐに、中隊長の声が聞こえた。
「全員退避っ。患者は後からだっ!」
洞窟の奥へ逃げ込む兵隊たちの乱れた足音が、聞こえた。

「ガス」と聞いた時、満山は持っていた手ぬぐいを鼻と口に当てた。真っ暗闇に、洞窟の崩れる音が聞こえた。火炎放射に焼かれてまだ死にきれない者、崩れた岩石の下敷きになって身動きできなくなった者たちの断末魔のうめき声が、洞窟内に反響している。
「ヤンキー、畜生っ!」
「誰がこんな戦争、始めやがったんだっ!」満山は、自分の手足がだんだん重く、固くなっていくのに気づいた。
「呼吸が苦しい、俺はもうだめだ。そうだ、小野が手榴弾を持っていたはずだ」満山は、死のうと考えた。満山は、暗闇の中ですぐそばにいたはずの小野を探した。しかし、小野はいない。頭も、何かに挟まれたようだ。満山はだんだん気が遠くなり、気を失った。

この時、同じ壕にいた兵士がいる。現在北海道芽室町にお住まいの恵田光之さんである。彼の部隊は、第24師団野砲兵第42連隊(2298名)だったが、たまたまこの時は、連絡兵としてこの壕にいた。この壕で、彼もこの時同じ毒ガス攻撃を経験している。

「私たち三人はよそ者の兵隊扱いされて、壕の奥には入れて貰えなかったのです」しかしこのことが、彼の命を救った。空気を取り入れる20メートルほどの斜坑の下に、居場所を求めていた。
「敵だっ、火炎放射だっ、毒ガスだっ!」という叫び声が聞こえた。毒ガスマスクなど、とうに失っていた。
「神経ガスだから、マスクは効かないと、誰かが叫んでいました。私達の周りだけ外の空気が流れ込んでくるものですから、助かったんです」壕の奥は、死体が足の踏み場もないほど広がっていた。

「ひどいもんです。私らにはどうすることもできません。深見大隊長(第二大隊)も、自分の部屋から出てきました。女子挺身隊の若い女性達が、一番可哀想でした。彼女たち340名が倒れて、呻いたり方言でお母さんの『アンマー』と叫んで居ました。しかし、どうすることも出来なかったんです」

この壕の奥には、満山凱丈が奇跡的に生き残っていた。その後、夜になって恵田光之たち3名は、この第2大隊本部壕を脱出した。ここでも、満山凱丈とほぼ同じ体験をする。脱出先には、米軍が待ちかまえていた。

「先に脱出した穴田伍長(風連町出身)の姿が、ありません。たぶん、直ぐに撃ち殺されたと思います。十良沢(伊達市出身)と二人で、中隊本部を目指しました」
 たどり着いたのは夜明け頃であったが、そこで目にしたものは、中隊の砲はかく座し、周りには戦友達が斃れていた。この日615日に米軍は、与座岳と八重瀬岳の日本軍の防衛ラインを突破した。恵田光之たち二人は、新垣にある大隊本部を目指し焼け野原を進んだ。米軍は与座岳の山頂から可燃物の液体を流して、山野を焼き尽くしていた。

このころ満山凱丈は、戦闘司令部壕の中に残っていた。聞き覚えのある声が聞こえ真っ暗闇の中に、一つだけローソクの灯が見える。
「みんな、どうした?」聞き覚えのある声は、髭ぼうぼうの近江中隊長であった。満山は、
「はっ」と答えたが、その声は中隊長に聞こえない。ようやく、崩れた岩石の中からはい出すと、中隊長のローソクの灯りで、中二階のほとんどが崩れ落ちているのがわかった。

洞窟の奥は、足の踏み場もないほどの死体で覆われていた。手榴弾を持っていた小野も、死んでいた。運玉森で負傷した満山を背負ってくれた北見出身の大塚も、死んでいた。ほぼ崩落してしまったこの洞窟から、脱出することが決定された。

とはいうものの、出入り口の外には米軍がいて日本兵が出てくるのを待ちかまえている。通常出入り口としない通気口から、脱出することとなった。通気口の出口は、煙突のように垂直であった。満山たち24名の負傷兵は一団となって梯子を登り、夜間の脱出を試みた。最後尾の満山が脱出できた時は、すでに夜明けが迫りあたりは明るくなり始めていた。

24名は、ここでばらばらになった。テキスト ボックス: 米  軍足でまといになる負傷兵たちは、同じ与座岳周辺にある「連隊本部患者収容所」に行くことを命令されていたが、無論正確な位置などわかるはずもない。満山は、何度も機関銃を撃ちまくられた。曳光弾の銃弾が自分の体に、吸い付いてくるように感じた。


                         BEFORE〈〈     〉〉NEXT

inserted by FC2 system