HOME〉Okinawa Okinawa>Novem〉2009
白梅学徒と武村 豊さん
旧姓 桑江豊さん
〈体験を語る武村豊さん。2009 11 11. 右は創建時の「白梅の塔」〉
〈新里堅進作「白梅の碑」より〉
病院といっても土の上に、ベッドが置いてあるだけです。手や足のない兵隊さんが運ばれてきました。
北海道出身の兵隊が、多かったと思います。ウジ虫で傷口も見えない人も居ました。ウジ虫の噛む痛みに、泣いている兵隊も居ました。
兵隊だけしか病院には入れませんでした。一般の人々はどんな怪我でも入れなかったのです。兵隊の尿と便をとる仕事が多かったのですが、尿瓶(しびん)の数が足りず間に合わなかったり、上のベッドから下のベッドに垂れてしまい兵隊同士の喧嘩が起こっていました。包帯も足りず何度も洗いに行きました。ウジだらけの包帯でした。
仕事も始めは二交代でしたが、五月ころになると寝た記憶がありません。まどろむだけだったのでしょう。野戦病院の壕の中では、普段は石油ランプをつかっていましたが、手術のときだけローソクを使っていました。そのローソクを持つ係りが、私でした。
手術と言っても負傷した兵隊の手足を切り落とすのが、その大半です。麻酔がなくなると、「生切り」といって麻酔なしで行われました。
手術には器具の煮沸消毒が必要でしたから、煙が出ます。昼間は偵察機に発見されますから、手術は夜間行われたのです。ですから、ローソクを持つ私は眠くてうとうとしてしまいます。すると軍医に蹴飛ばされました。
切断した手足は、ブリキ製の空き箱に入れて置かれ、青白く光る手足は不気味でした。そして、夜捨てに行きました。重たい足は二人がかりで運びました。艦砲射撃で大きな穴があり、そこに池のように水がたまっていましたが、そこに投げ込むのです。
食事は一日一回は食べられたので、恵まれていたと思います。「メシアゲ」と言って働いている上の壕から食事を下の壕に取りに行くのが大変でした。飛行機が来るので命がけでした。中身が半分に減ってしまうこともありました。豊さんは、那覇市出身、1929年生まれの当時16歳。父を亡くし母と姉の三人暮らしで、東京に二人の兄が居ました。
1944年10月10日の空襲で家を失い、家族は与那原の親戚の家に間借りしていました。
八重瀬岳の第24師団第一野戦病院「上の壕」に勤務していたが、6月4日学徒隊解散後11人と逃避行し、最後は海岸で米軍に収容されました。母と姉は、豊さんを追って南部をさまよい行方不明のままです。母は豊さんが「白梅隊」に入隊した後、北部へ疎開するよう言われながらも、激戦地の南部に向かったのです。「娘一人を残してはいけない」と・・・