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                 捕虜と日本人墓地
             
                     ノモンハン事件現地取材2010夏 その9               
                                                   
                                                十勝毎日新聞にて連載
  モンゴル国ドルノド県                                              2010 8
         
  
               ロシア国境の町スフパートルにある日本人墓地の跡地 2010 8 13
  
      
       <ウランバートル駅 2010 8 12〉
   
 
 〈アルタンボラクの日本人墓地跡 顔がくりぬかれている
                               観音像)

 
 
        〈観音像を直して手を合わせる)

 
            〈ロシアとの国境ゲート〉


 
    
     〈すぐに両外商がやってくる

 
         〈スフパートルの町を見渡す〉

 
      〈スフパートルのホームで列車を待つ〉

  日本軍捕虜   

ノモンハンの悲劇を語るとき、日本兵の「捕虜」問題を避けることは出来ない。戦場で重傷のあまり気を失い、気が付いた時にはソ連軍のテントに横たわっていたという例は数多い。

捕虜の数は、最大で二千から三千と言われているが、全体の日本側戦死者が8000名ほどであれば、この数字は不自然である。生死不明者数が第7師団で345名。第23師団で349名、全体で1021名という妥当な数字がある。
 また停戦後すぐの捕虜の交換では、200名ほどが帰国している。これらに照らすと捕虜は合計数百人と考えるのが妥当であろう。
 ただ今年で22回目の現地慰霊訪問を重ねている元関東軍情報将校永井正氏(横浜市)によると、「残留したのはほんの数十人ですよ」という。

 とにかくその特徴は、大半の日本兵捕虜が「日本に戻らなかった」ことにある。終戦後すぐのシベリア抑留を経験していた兵士が彼ら日本軍捕虜を、ソ連領内で目撃している。
「コスモモリスクでの話なんだけど、ある日木材の伐採作業に出かける途中で、顔つきが日本人のような男と出くわして、声をかけたんだよ。自分はノモンハンの捕虜だと言うんだ。きちんとした身なりをしていてね、結婚して、子供もいるって言うんだよ。名前も出身地も言わなかったけど、日本に戻ることは諦めているというんだ」。こう語るのは4年間のシベリア抑留を経験した水野優(帯広市在住 敬称略)である。
 また三年間の抑留経験者の里瀬勝{敬称略 広尾町在住}は、「直接聞いてはいないんだけど、タシケント周辺で多くの捕虜がいたと、同じシベリア抑留仲間が話していましたよ」。

捕虜を許さない「生きて虜囚の辱めを受けず」の「戦陣訓」が東条英機によって発布されるのは二年後の1941年であるが、すでに「捕虜」を「辱め」とする軍隊での教育は徹底されていた。
 また実際に捕虜になった兵には「極刑」が適用された例は多い。多くの日本兵の捕虜は、極刑を恐れ帰国を諦めたと考えられる。
 ソ連軍も「自軍の捕虜を許さない」体制を持っていたが、社会主義思想を日本に伝えるために彼らを利用しようと考えていた。

  シベリア抑留日本人墓地   

ともかくノモンハンで捕虜になり帰還しなかった将兵の大半は、悪名高きソ連側による「シベリア抑留」を体験することになる。 全体では60万人にのぼるが、そのうちモンゴル国内に送られた抑留者は12318名、うち1597名が死亡したとする数字がある。そして16の日本人墓地が設置されたという。

 私はできるだけ多くの「日本人墓地」を、訪問したくなった。ノモンハンから三日がかりでウランバートルに戻ったその足で、急遽駅に向かい私たちは夜行寝台列車に乗った。翌朝には、300キロ北のロシア国境の町スフパートルに到着というわけである。
 翌朝の814日は、前夜からの風雨がなかなか収まらず、雨が上がった午後にようやく郊外の丘にある「旧日本人墓地」を訪問した。
 北緯50度の寂寥感漂う丘に、観音像が残っていた。90名ほどの遺骨が、近年発掘されているという。

 その後タクシーで30キロほど北東の町「アルタンボラク」にある同じく「旧日本人墓地」を訪問したが、ここでは愕然とするシーンが待っていた。 遺族らが建てた観音像が破壊され、横たわっている。しかも顔が切り取られ、銃弾まで撃ち込まれているではないか。翌日訪問したウランバートルのダンバダルジャーの835名と比べ、ここの死亡者はわずか8名とは言え、これはあまりにも惨い。

 現在もこの国では、日本人の慰霊行為は理解されていないのである。私はノモンハンの戦場で、国境警備隊の30歳の若きムンフナイラムダル所長へのインタビューを思い出した。「私にはあなたたちがしていることが、まったく理解できない」と。
 北緯50度の最果ての地に眠る兵士たちは、どこまでも悲しい。

  あとがき     

 帰国後も、多くの方から電話手紙などを頂き、体験者も現れてまだまだこの取り組みは終わりそうにない。
 第7師団の第26連隊27連隊については、ある程度調査を進めることができたが、26連隊生田大隊全滅の様子や、第28連隊の死闘については、ご健在の体験者がおらず書物からでしかその様子を知ることができないままでいる。多くの体験者を捜し当てたが、他界されている方が大半であった。あと数年早く取り組めば、この倍以上の調査を進めることができたはずである。

 戦場に残されていたソ連軍戦車の残骸も、2008年の北京オリンピックの年をピークに、中国側の金属回収業者に売り払われたという。現在は、一台も残されていなかった。
「もっと早ければ」。私の後悔は何時もこれである。しかしそれ以上に、「何のために、ここで彼らは死ななければならなかったのか」。国家レベルのこの後悔こそ、比較しようがないほど大きいはずである。
          
(みのぐちかずのり 本別高校教諭)



  
〈スフパートル駅 我々の乗る列車がイルクーツクから到着〉


             
            
  アルタンボラクの旧日本人墓地から町の国境検問所とロシア領が見える 2010 8 13
                      
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